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魔女!/「小さい魔女」

 2005-05-31-06:48
こちらもまた懐かしい児童書。私が持っている児童書には大体何とか賞を取りました、って書いてある気もするのですが、こちらは「ドイツ優良児童図書賞」「厚生省中央児童福祉審議会特別推せん」「全国学校図書館協議会必読図書」らしいです。私が持っているのは古い本なので、当時ということですけれど。

オトフリート=プロイスラー作 大塚勇三訳「小さい魔女」

以前、少女小説について書いた時 にちらっとタイトルだけを出していたのだけれど、これは「年はたったの百二十七」「魔女のなかまでは、まだ、ひよっこみたいなもの」である魔女のお話。年をとった魔女って普通は怖いでしょう? でも、この魔女はちっとも怖くない。魔法のおけいこをしている所なんか、そこらで勉強している小中学生と何ら変わりがありません。

魔法というものは、そうかんたんにはできません。魔法で一人まえになろうとする人は、なまけていてはだめなんです。まず、こまごました魔じゅつをすっかりおぼえこんで、・・・・・・それから、大がかりなのをおぼえなきゃなりません。魔女の本を、一ページ、一ページと、すっかりおぼえていくのですし、そこにでている問題を、ひとつでもごまかしてはいけないのです。

この小さい魔女は「まだ、ひよっこ」だから、あらゆる魔女たちがブロッケン山に集まって踊る、楽しい「ワルプルギスの夜」に招いてもらえない。一緒に住んでいる、分別ある利口なカラス・アブラクサスに止められたにも関わらず、小さい魔女は踊りに出掛けてこっそりと輪に忍び込む。忍び込んだもののやっぱり見つかって、魔女のおかしらの前へ連れて行かれる。しかし、転んでもただではおきない小さい魔女。来年までによい魔女になっていれば、ワルプルギスの夜の前日に、魔女の委員会を招集して、そこで試験をすることを約束してもらう。

それからの一年間、小さい魔女は大好きな悪ふざけ、悪戯も控えて「いい魔女」になる努力を続けます。最初に梃子摺っていた魔法の本だって完璧に暗記します。 さて、結果はどうなったか?
「いつでもどこでも、魔法でわるいことをする魔女だけが、いい魔女なんじゃ!なのに、おまえは、魔法をつかって、いいことばかりしおったから、だから、わるい魔女なんじゃわい!」
ワルプルギスの夜のためのたきぎの山を一人で作るよう命じられた小さい魔女。解決策が痛快! でも今読むと、大きい魔女たちがちょっと可哀想でもある。

この本の影響で、「ワルプルギスの夜」と聞くと、この小さい魔女が「ワルプルギスのよーる!」「ワルプルギスの夜、ばんざーい!」と踊っている場面が思い浮かぶのです。


最初の頃の魔法の失敗(雨を降らそうとして、バターミルクを降らす)、新しい箒をならす場面あたらしいほうきというやつは、わかいウマとおんなじことです。のるには、まずならさなきゃなりません)、森のカーニバル(魔法による仮装大会。ウサギにはシカのつの、シカにはウサギの耳、カラスのアブラクサスにはリスのしっぽ、皆を食べてしまう恐れのあるキツネにはアヒルのくちばし)などなど、色々と魅力的な場面がいっぱい。「いい魔法」を使った後、ひっそりとその場を離れる所もいい。

箱絵、挿絵は残らず原書から転載したものとのこと。挿絵も綺麗なんです。愛らしい、はねっ返りの小さい魔女。友達に如何でしょうか。

著者: オトフリート・プロイスラー, 大塚 勇三
タイトル: 小さい魔女
(同じ作者の「小さいおばけ」「大どろぼうホッツェンプロッツ」は画像が出るのに「小さい魔女」だけ画像が出ないようです・・・。がーん。今手元にはないのですが、「小さいおばけ」「大どろぼう~」も同じくお薦めです)

*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡下さい。
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ヘッセ/「ヘルマン・ヘッセを旅する」

 2005-05-30-07:51
ヘッセって読みました? 私は家にあった旧字体の本で読んだのが、最初だったと思います。「デミアン」「知と愛(でしたっけ?「ナルチスとゴルトムント」というタイトルだったような気もする)」「荒野の狼」なんかが好きでした。一方、学校で読まされた、「車輪の下」は全く面白くありませんでした。最初に「車輪の下」を読む人は可哀想だなあ、と勝手に同情していました。

ヘッセの本は大抵の場合、強い自我が描かれているように思うのですが、それが挫折の後、再生を果たしていないと意味がない。そういった意味で、「デミアン」なんかが好きで、「車輪の下」が嫌いだったのだと思います。今、両者とも手元にないので、ちょっとうろ覚えですが、「堕ちよ。その後に這い上がれ」というのは、「デミアン」坂口安吾「堕落論」などに共通した精神だと思います。

で、今日はこちらの一冊。

写真・文 南川三治郎「カルチャー紀行 ヘルマン・ヘッセを旅する」

構成はこうなっている。

第一章「カルフ」~生誕の地~
第二章「ガイエンホーフェン」~執筆活動へ~
第三章「モンタニョーラ」~安らかな日々~
●絵画集「ヘッセの水彩画」
●アルバム「ヘルマン・ヘッセ グラフティ」
●「カルフ」ヘッセ所縁の地案内マップ
●「モンタニョーラ」ヘッセ所縁の地案内マップ

扉によると、『車輪の下』、『青春は美わし』などで知られるドイツの代表的な作家ヘルマン・ヘッセ所縁の地カルフ、ガイエンホーフェン、モンタニョーラを訪ねその足跡を精緻にたどる写真紀行とのこと。



美しく自然豊かなドイツの町、終の住処カサ・ロッサ、ヘッセの人生に関する記述。写真紀行だから直ぐに読み終わるかな~、なんて思っていたのに、非常に読みでがあり、意外と時間をとりました。自然や庭仕事を愛しながらも、放浪生活にも憧れるヘッセ。とんでもなく強い自我に生涯苦しんだ人なのかなあ、と思っていた。でも、ここに載せられている水彩画はとても穏やか。美しい風景、庭仕事、そんな生活の中で紡がれた物語だったのだと初めて知った。あ、ヘッセの顔、気難しそうではありましたが、中々端正なお顔でありました。


カルフに住むヘッセ研究家ウリ・ロートフス氏の言葉。
「ヘッセの生涯を顧みると、ヘッセのあまりにも激しい生きざまとそれを克服する勇気に感服せざるをえません。度重なる危機を乗り越えた末、辿り着いた晩年の豊かな境遇に感嘆させられるのは私だけではないでしょう。ヘッセは人生半ばからとても偏屈な人間性を持ち強靭な精神を持つ人になりました。それにもかかわらず、愛について、人生について、時には田園生活を送る中で、孤独に、孤高に、自身を探求し続けて生き抜いたといえるでしょう。」

ヘッセの次男ハイナー・ヘッセ氏の言葉。
「土と交わることは父にとり、書く事からの気分転換でした。ガーデニングは父にとって作品のための活力と構想を練るための時間だったのです。父は自然の中にある美しいものをいつも私に見せて『草むしりは退屈だっていうだろう?違うんだ。瞑想するにはもってこいだよ。無心にやれるから手は忙しいけれど、心は空いている』とね」
 
著者: 南川 三治郎
タイトル: ヘルマン・ヘッセを旅する―カルチャー紀行

*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡下さい。

生活一般、暮らし/「毎日楽ちんナチュラル家事」

 2005-05-28-10:24
佐光紀子「毎日楽ちんナチュラル家事」光文社知恵の森文庫

何を隠そう家事は苦手。特に勤めていた頃は毎日の通勤で疲労困憊。ひどいものでした。 まさによれよれ。「家事劣等生でも大丈夫!これで何とかしのげます」の帯に惹かれてその当時購入。こんな私を助けてくれるの?、よよよ、という思いでした。 章立ては以下のようになっています。

一章 他人の家事をのぞくっておもしろい
      日々発見の寮生活
      生活を支えるシンプル家電
      100人いれば家事のやり方も100通り
二章 お掃除の楽ちん安全ワザ
      ナチュラル・クリーニングに切り替えると  
      キッチンの基本的なお掃除方法 
      リビングのお掃除方法  
      洗面所とバスルーム  
      トイレ
三章 片付けられない私
      片付けと掃除は別物
      玄関収納って大事
      掃除用具はどこにしまうの?
      ごちゃごちゃキッチンを何とかしたい
      アルバムやビデオ
四章 洗濯とアイロンがけ
      お手軽お洗濯の洗剤と洗い方
      衣類の管理とお洗濯
五章 食べること
      買い物はお好き?
      食事を作る
      食べる準備と食べること
      後片付け
六章 情報とお金の管理
      時間の管理
      連絡先の管理
      お金の管理
      おわりに


働きながら、三人の子供を育てておられる著者。旦那様も「気軽に手伝ってはくれる」そうですが、結婚後「基本的には私が「主婦」として家事を担当するような状況に、事態は進んで」いくわけです。「 いわゆる偏差値世代で、小学校高学年から、「お手伝いより勉強しなさい」と言われて育った私 」には、思い当たる節がある方も多いのではないでしょうか。これはそんな著者が教えてくれる、「しのぐ」家事の本。

これを読んで、薬局に重曹(アルカリ性)とクエン酸(酸性)を買いに走りました。汚れの質を見極めて、中和して落とす所など目から鱗が落ちました。世の生活者の方々、参考になると思います。カラフルで細かく種別に分かれた洗剤を持ってうんざりするよりも、重曹とクエン酸の二種類を使ってさっさと掃除をする方が精神的にとっても楽です。一度にそんなに沢山の量を使うわけでもない、あの種の洗剤大嫌いです。(使い切ったら順次捨てていく予定ですが、まだ残っている奴らには、洗剤と埃が一緒に嫌な感じにくっ付いて泣けてきます。なんだって洗剤のボトルを掃除しなくてはならないのでしょう。)

著者: 佐光 紀子
タイトル: 毎日楽ちん ナチュラル家事

*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。

正確には光文社知恵の森文庫から出版されています。「知恵」という言葉がいいですよね。「知識」は簡単に増やすことが出来るけれど、「知恵」はそうではない。
周りからの伝承が途絶えている時代ですから、こうやって色々な本から「知恵」を授けてもらえるのって大変に有難いです。

騙される/「葉桜の季節に君を想うということ」

 2005-05-27-08:10
歌野晶午「葉桜の季節に君を想うということ」

以前、「世界の終わり、あるいは始まり 」を読んで、凄いなーとひたすら感心したのだけれど、こちらにもまた感心。皆さんが仰るとおり、一作一作作風が全く違うのでしょうね。

後から考えると、嗚呼あそこが!、など色々思うし、若干違和感を覚えた部分もないわけではない。でも、全体として私は気持ちよく騙されました。うん、これだけ気持ちよく騙してくれれば、読者冥利に尽きるというもの。安心して騙されるのも、また読書の楽しみの一つ。

次はどの作品で騙されようか。 そして、この本のトラちゃん、かっこいい!!
(しかし、冒頭などちょっと絶倫すぎやぁ、しませんか。笑)


著者: 歌野 晶午
タイトル: 葉桜の季節に君を想うということ

少女若しくは家庭小説/「マイ・ディア」

 2005-05-26-07:51

とら さん、みわ さん、戸隱 さん(順不同)と、コメント欄で児童書について話していました。私のブログ、記事本体よりもコメントの方が、皆様のお陰で数段面白いのですよ。で、好きな児童書について書きたいなあ、と思っていたのだけれど、あまりの数の多さに困惑。ぐるぐるしてたら、なぜだか少女小説に着地してしまいました。児童書については、またその内リベンジということで・・・。

一応、過去記事で児童書について少しでも触れたものを挙げておきます。もしよろしければ、こちらの記事もご覧下さい。
・児童書関連の記事。イギリス七つのファンタジーをめぐる旅ドリトル先生の英国
・ナルニア国ものがたりゲド戦記シリーズエルマーシリーズ


で、少女小説について、今日はこちら。

氷室冴子「マイ・ディア *親愛なる物語*」

少し前にトラステで、「読書は教養のためにするものか、はたまた娯楽のためのものなのか、激論をせよ」なるお題があがっていました。私にとっての読書は、自分が現実に生きる世界とは異なる世界を知る、若しくはそこで遊ぶためのもので、そのどちらにも当て嵌まらない。この「異なる世界」をより良く知るために、「教養」的な本を読むこともあるけれど。子供の頃の現実の世界というのはとても狭くて、大人のように他の「娯楽」や気晴らしがあるわけではないから、本にはそれはそれはお世話になったもの。ちと脱線しますが、私は本を読まずにはおられなかったから、「本を読まずに育つことの出来た、現実の世界がちゃんと広かった人たち」に対する憧れもあります。読書が習慣づいて、現実には体験できない、豊かな世界を知ることが出来るのは良かったのかな、とも思いますけど。


で、「マイ・ディア」は文字通り、氷室冴子さんの「親愛なる物語」である「家庭小説」について書いたもの。目次は以下。

いとしのマシュウ『赤毛のアン』
オルコットかモンゴメリか『八人のいとこ』『花ざかりのローズ』
ハウス食品におねがい『リンバロストの乙女』
ストーリーテリングということ『若草の祈り』
軽やかなワルツみたいに『少女パレアナ』
ミスターの魅力『少女レベッカ』『レベッカの青春』
心ふるえて・・・・『十七歳の夏』
ひとやすみにお茶を『秘密の花園』『あしながおじさん』『丘の家のジェーン』『昔気質の一少女』他

赤毛のアン
については過去記事 にしたこともあるのだけれど、その他にも私にも懐かしい本がいっぱい。そして、この氷室さんの本を信頼するに値すると思うのは、赤毛のアンに関する以下の記述。

アンの物語がアニメ化されたり、映画化されたりしたときに、アンが最初から、なんの屈託もない、天真爛漫なコとして出てくると、(なんか、ちがう)としっくり、こないものがある。(中略)『赤毛のアン』は、おしゃべりすることでしか自分を主張できなかった、器用そうにみえて、ほんとはすごく不器用な女の子に、世界が少しずつ扉をひらいて、優しくなってゆく物語なんです、ほんとはね。

アンはおしゃべりで、ただ能天気な女の子じゃあ、ないんだよ。だから世界中の「女の子」たちに、世代を越えてあれだけ愛されているんだよね。「嗚呼、私オルコットは駄目だったよ」、とか「ネズビットが駄目だったのは、ストーリテリングということが分かっていなかったせいか」とか「パレアナのあの性格!滅茶苦茶鬱陶しかったよ」など、いろいろ懐かしいことこの上ない。『昔気質の一少女』なんて、確か家にあった旧字体の本で読んだはず。だから、家は親子二代で読んだのかな。

この氷室さんの本自体がとても古くて、私が持っているのは15年前のもの。この本で知ってから読んだ、『リンバロストの乙女』もとても良かった(が、実家で紛失してます。どこ行っちゃったんだー。涙)。『十七歳の夏』も良かったような記憶があります。 過去少女だった人たちには、とても懐かしい物語たちだと思うし、こういった小説群には日常の細々したことが、ちょっと素敵な事に思える魔法がかけられていると思う。ゴシップ好きな人、細かいお節介を焼く人もしょうがないなあ、と少し愛らしく思えるかも、です。


皆それぞれの中に「親愛なる」物語が存在するのでしょうね。ホント、ブログ書いてると、本に対するラブレターを書いているみたいだなあ、と時々思います。それも熱烈な。

少女小説とは少し違うかもしれないけれど、この本に挙げられていないもので好きだった少女たち。

・リンドグレーン「長くつ下のピッピ」における「世界一つよい女の子」ピッピ・ナガクツシタ
・プロイスラー「小さい魔女」 における小さい魔女。少女じゃないけど、「年はたったの百二十七」で「魔女のなかまでは、まだ、ひよっこみたいなもの」だからいいよね。
・エンデ「モモ」モモ
・クリアリー「ヘンリーくんシリーズ」における「豆台風」ラモーナ
・ブライトン「おちゃめなふたごシリーズ」サリバン家のふたご、パットとイザベル
・ワイルダー「大草原の小さな家シリーズ」ローラ。最後の方は、滅法強力な、辺境でたくましく生きる主婦の生活になってますが。

少年少女とすると、ポプラ社吉本直志郎さんのもの。村上豊さんの何とも豊かな挿絵がついた、「青葉学園物語シリーズ」。同じ作者でこちらは流麗な中島きよしさんの挿絵がついた「バカラッチ隊シリーズ」。同じく中島潔さんの挿絵がついた「十二歳シリーズ」(こちらだけ手元になくて、検索したら薫くみこさんという方が書かれたらしい。日本の物では非常に珍しく、少女たちがとても良かった)。

うーん、自分の子供時代には、色々と不満も後悔も多いのですが、本だけは大変に豊かに育ったのだなあ、と改めて思いました。 あと、過去氷室冴子さんについての記事も書いてます。何だかリンクばかりで申し訳ないですが、よろしければこちら もどうぞ。


著者: 氷室 冴子

タイトル: マイ・ディア―親愛なる物語

amazonで「出品者から」と書いてあるということは、これはもしかして絶版なのでしょうか。うーん、流石15年前。いい本なのだけどな。偶に古本屋で見掛けます。


*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用を行っております。何か問題がございましたらご連絡下さい。

三浦しをんさん/「人生激場」「月魚」

 2005-05-25-09:07
最近の私の読書の仕方はちょっとずるくて、エッセイ・考え方の類から、読んだ事の無い作家さんに入門する事が多い。考え方の本ってちょっと読み辛いかなあ、と思っていたのだけれど「どこに着地するのかよく分かんない小説」を読むよりもストレスが少ない事が分かったし、日常を書いたエッセイはそもそも読み易いし。さらに最近の読書としては、金銭的な問題(無職なので)や時間的な事(暇ですからね)から、図書館の利用頻度が非常に高い。当然賞を取った本なんかは、貸し出し中な事も多いけれど、その作家さんの本が他にないわけでもなし、装丁や冒頭が気に入ったものなんかを借りてきて読んでいる。

前置きが長いですが、で、三浦しをんさん。まずは、エッセイ「人生激場」を読んでみた。面白かった。女性の作家さんって、日常の物事に対し、突っ込む方が多いのかなぁ。山田詠美さんのエッセイにも似てる。あちらよりも、当然若いけれど。ヒステリックさを除いた、氷室冴子さんのエッセイのようでもある。

それで、「月魚」という言葉と、著者の着物姿の古風な近影に惹かれて、こちらの本を借りてきた。

三浦しをん「月魚」角川書店

古書の世界に生きる幼馴染の男性二人の物語。古書の世界も興味深いし、齟齬も無い。文章の巧みさは、かなりのレベル。

その細い道の先に、オレンジ色の明かりが灯った。古書店『無窮堂』の外灯だ。瀬名垣太一は立ち止まり、煙草に火をつけた。夕闇が迫っている。道の両側は、都心からの距離を考えれば今どき珍しい、濃縮された闇を貯蔵する雑木林だ。街灯はあるが、それも木々に覆い隠されている。瀬名垣の訪れを予知したかのごとく、『無窮堂』の灯りは薄暗い道を淡い光で照らした。霧の港で船を導く、灯台の灯火。寄港の許しを請う合図のように、瀬名垣の口元の小さな赤い火が明滅した。

こんな書き出しの冒頭、素敵でしょう。でも、何となく騙されたような思いが残る。なぜかというと、この作品には、矢鱈とやおいの薫りが濃いのです。ちょっと読み進めるのがきつかった。いいなあ、と思った箇所もあったのだけれど、これ男女では駄目だったのかなぁ。同性愛に偏見があるわけではないけれども、色素の薄い美少年キャラと、快活で豪胆な背の高いその相方、ってのは如何にもやおい的典型に感じてしまった。

ちなみに、いいなあと思った箇所。

瞼の裏に、記憶の底に刻みつけられた緑の山々の稜線が浮かび上がる。奥深い山の間を流れる細い沢。流れに沿って並ぶささやかな家々。私の生まれた場所。今はもうない故郷の村。(中略)「天気のいい日に砦のような見学用の橋の上から覗き込むとね、澄んだ青い水の中に、ゆらゆらと村が見えるんだ。細い川にかかっていた橋が、雑貨屋の前にあった赤い郵便ポストが、そのまま水底に残っている。」

若いけれどいい作家さんなのだと思うのです。技量にも問題はないのでしょう。ただ、巧いのだけど、伝えたい事がよく分からなかった。

気に入らなかった本について、何だってこんな長々と書いたかと言うと、「面白い作家さんだとは思うので、このブログにいらした方で、『しをんさん、これが面白かったよー』、というのがあれば教えて下さーい」ということに尽きます。ご存知の方、お手数ですが教えて下さい~。あ、もし「月魚」を読まれた方がいらしたら、そちらの感想もお聞きしたいです。
著者: 三浦 しをん
タイトル: 人生激場
著者: 三浦 しをん
タイトル: 月魚
「月魚」、ハードで読みましたが、文庫になっているようです。

*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。

首を飼う/「ポポイ」

 2005-05-24-07:51
倉橋由美子「ポポイ」

穏やかではないかもしれないけど、これは美少年の首を飼う物語。「ポポイ」というのは、主人公の舞がこの首につけた名前。悲嘆をあらわすギリシア語の感嘆詞とのこと。これ一冊でも話として纏まってはいるのだけれど、『「桂子さんの物語」という大きな幹から分かれた枝*』でもある。
(*「夢の通い路」新潮文庫の古屋美登里さんの解説より引用)

高校時代の友人が倉橋由美子さんに嵌まっていて、借りて読んでいる内に私も嵌まってしまった。優雅で上品な言葉遣い、とってもノーブルな世界なのだけれど、幻想的でエロティックでもある。読書の大きな魅力の一つである、「異世界」に遊ぶ事の出来る小説なのだ。

とりあえずは、薄く、「美少年の首」というインパクトのあるこの一冊から再読。主人公の舞も、「舞」なんて普通の可愛い名前を持っているけれど、実は全然普通の女の子ではない。元首相の祖父を持ち、「お城」のような建物に一族で住んでいる。倉橋さんの小説の登場人物は、大体において恵まれた生まれや境遇、容貌を持つのだけれど、さらに独特の価値観(時にそれはインモラル)やクールな物の見方を持っている。

主人公の舞の独白。

考えてみると、私はすべてにニュートラルな人間であるようだ。何事に対しても、「こうあるべきだ」という姿勢をもたない。すべてはそのあるがままの姿であるしかしようがないではないかと思っている。その意味で私はまわりのすべてに対してニュートラルであるらしい。(中略)ニュートラルな人間は「べき」を放射しないから、ぎらぎらしない。無色透明に近くてつかみどころがない。匂いも薄い。(中略)私にもかなりはっきりした好き嫌いはある。ただ、嫌いなものは自分とは無縁のものと見て、関係を切断しておくだけのことだ。軽蔑はしても憎むということはない。好きなものは好きで、それがそばにあると嬉しい。しかし無理に所有しようとは思わない。なくなれば淋しい。でも淋しさを味わうのも悪くないものだ。

脳だけの存在となってしまったポポイ。それとは対照的に、脳梗塞により脳のハード部分が壊れたと思われる舞の祖父。ポポイの存在はこの物語における重要な要素であるのだけれど、どうも世話をされるだけの、庇護される存在となったポポイには、観賞用としての興味しか湧かない。抜書きの多さからもお分かりかもしれませんが、美少年ポポイよりも余程、舞の方にぞっこんなのだった(ってか、ぞっこんって死語かしらん)。

音楽に対するこんな表現も好きだなあ、と思う。

このディスクから出てくる音楽は、音を波のようにではなくて粒子のように使っている音楽だ。今、部屋の中は暖かいし、この適度に柔らかくて、湿りを帯びた音の粒子は脳をマッサージするにはちょうどいい具合だと思う。

硬くなった頭に、倉橋さんの小説は、それこそマッサージとしてよいのかもしれないなあ、と思う。

著者: 倉橋 由美子

タイトル: ポポイ
(画像出ないようですが、表紙も綺麗)


ぼうけん/「エルマーシリーズ」

 2005-05-23-08:07
最近、ファンタジー系について書くことがちょっと多い。図書館本が詰まっているのです。翻訳物ってなぜか時間が掛かってしまいます。早く読まねば~。児童書を漸く実家から引き揚げられたので、昔の本をつい読み耽ってしまうことが多いのかな。
今日は「エルマーシリーズ」

著者: ルース・スタイルス・ガネット, ルース・クリスマン・ガネット, わたなべ しげお
タイトル: エルマーのぼうけん
著者: ルース・スタイルス・ガネット, ルース・クリスマン・ガネット, わたなべ しげお, 子どもの本研究会
タイトル: エルマーとりゅう
著者: ルース・スタイルス・ガネット, ルース・クリスマン・ガネット, わたなべ しげお, 子どもの本研究会
タイトル: エルマーと16ぴきのりゅう

一時期漫画を禁止されたり、テレビ番組を制限されて育ったせいか、どうもビジュアル刺激に弱いワタクシ。テレビ番組の放映時間(&放映局)はすぐ忘れてしまうし、つい「ながら見」をして「ながら」の方に夢中になってしまったりする。家ではあまり映像に集中出来ないせいか、レンタルして映画を見る、ってのもあまりしないなあ。私のビジュアル刺激は、本によるものの方が断然多い。

このシリーズ、上の画像を見てもお分かりの通り、すっごく絵が綺麗なんです。 「エルマーのぼうけん」では、エルマーが「くもから、どうぶつ島におちてけがをして、それからやばんなどうぶつたちのとりこになっていた」りゅうの子供を助けます。「エルマーとりゅう」では、りゅうがエルマーを乗せて家に帰るまで(途中、海に不時着するというハプニングあり。そこからの話があるんだ)、「エルマーと16ぴきのりゅう」では、りゅうの子に助けを求められたエルマーが、閉じ込められたりゅうの15匹の家族を助けだす

表紙裏の地図も挿絵もとても綺麗。一冊目の「エルマーのぼうけん」はボロボロになり過ぎてしまい、捨てられてしまいました。残念~。だから家にあるのは後の二冊のみ。

「りゅう」といっても、鱗だらけのごつごつした身体じゃあない(ここにはあげないけど、りゅうの家族の身体も本当にカラフル) 。
りゅうのからだは、きいろとそらいろのしまもよう。それから、まっかなつのと目があって、りっぱな、ながいしっぽがついていました。そして、ほんのりとあかるい月のひかりにてらされてかがやいている金いろのはねは、とくべつ、きれいにみえました。

銀のハーモニカ、ももいろのぼうつきキャンデー、みかんのかわを食べるりゅう(本当の主食はスカンクキャベツとダチョウシダだけど)

挿絵も何だかユーモラス。大好きでした。

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もてなしの心/魯山人もてなしの真髄

 2005-05-21-08:23
殊勝な心がけで手に取ったわけではないのですが、最近「おもてなし」に少々関心があったので、こちらを。

平野雅章「魯山人もてなしの真髄」リヨン社

ちなみに私の「魯山人」知識は、「「美味しんぼ」の「海原雄山」氏のモデルだっけ?」位な物です。お粗末(でも主人公・山岡氏よりも海原氏の方が好き)。本書は食物史家で魯山人の弟子でもあったという、平野雅章氏の手によるもの。目次は以下。

第一章 星岡茶寮のもてなし
第二章 魯山人のもてなし
第三章 もてなしの形
第四章 もてなしの心
第五章 もてなしの彩
第六章 武人のもてなし
第七章 文人のもてなし
第八章 私の受けたもてなし

全編が魯山人の話なのかと思いきや、そうではなかった。第一章、第二章辺りは魯山人の話。第八章にも幾らか登場している。魯山人の書いた文章と、地の文が少し判別し辛い(読み取りが足りないだけ?)。第三章辺りからは、茶道の心得が説かれる。第六章、第七章などは引用を行っている関係で、偶に古文調になってしまい少々読み辛い。この辺り、ちょっと読み飛ばしました。もてなしの心、懐石料理などについて、分からないながらも興味深かった。 印象に残った箇所を上げます。


魯山人の料理哲学の根本「無理・無駄のない料理」
素材をすべて生かしきるという精神であり、材料の無駄遣いをきびしく戒めている。職人の技で味の限界をきわめるのもいいけれど、そもそも「料理」は「理(ことわり)」を「料(はかる)」と書くように、無理・無駄を極力なくさねばならないものである。 「料理は素材が八、料理人の腕が二。素材がよければ、すでに料理は完成したも同然だ」「素材を生かしきるためには素材の声を聞かねばならない。いまの時季は自分を食べてくれ、と素材が叫んでいる。それに耳を傾けろ」

もうひとつの魯山人の料理の信条である、もてなしにおけるこまやかな心づかい
基本は、温かいものは温かく、冷たいものは冷たく供する人手はかかっても時系列で一品一品、できたての料理を順番に客席に運ぶ現在のコース料理のスタイルを考案した。これが“本膳崩し”である。魯山人は料理だけでなく、食器の美も非常に重視した。「よい料理はよい器を要求し、よい器はよい料理を要求する」

「懐石」ということばの起こり
禅の修業をする僧が空腹をしのぐために、温めた石を懐に入れたという禅語の「薬石」に由来している。禅ではのちに夜食や粥のことを指すようになるが、茶事では濃茶をおいしく喫するために、おなかをととのえる程度の軽い食事のことを「懐石」の名で呼ぶようになった。

井伊直弼(号宗観)の茶の湯に関する代表的著書。『茶湯一会集』
武人って茶人でもあったのですね。そんな著書があるとは、全く知りませんでした。

料理の心得
「料理煮方には、四季それぞれに心得がある。まず春や冬は、いかにもふっさりと見えるように調理の心がけがあってほしく、夏や秋は、すんがりと見えるようにすること。かと言って、少なくてさみしいのはよくない」(これは魯山人の言葉ではなかったはず。メモし忘れましたが、どこかの料理屋の方の言葉だったと思う)


道具だって格段に増えているし、冷蔵庫だって昔に比べれば高性能。それでも、「温かいものは温かく、冷たいものは冷たく供する」のは結構難しいもので、手順などなど、色々な才覚がいるものだなあ、と思いました。基本は「ようこそ!」という心なのでしょうけれど。

著者: 平野 雅章
タイトル: 魯山人 もてなしの真髄

*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたらご連絡下さい。

まことの信心/「さいごの戦い」

 2005-05-20-08:14
有名な「ナルニア国ものがたり」。子供時代に箪笥の奥が気になった方もきっと多いはず。私もご多分にもれず、箪笥の奥が気になったし、同時期に読んでいた「グリーン・ノウ」の影響もあってか、古い民家なんかに行くと、ドキドキワクワクしちゃってしょうがありませんでした。どこかが異世界に繋がっているのではないか、と。

「ナルニア国ものがたり」は全七冊からなっていて、通して読むとナルニアという国の始めから終わりまでが、全て分かるようになっています。解説によるとこんな感じ(「」内が作品名)。

ナルニア生まれる     「魔術師のおい」
数世紀のち         「ライオンと魔女」
ピーター王のころ      「馬と少年」
数百年のち         「カスピアン王子のつのぶえ」
カスピアン王三年     「朝びらき丸 東の海へ」
カスピアン王七十年ごろ 「銀のいす」
チリアン王のすえごろ   「さいごの戦い」

イギリスの子供たちが偶然ナルニアという国に足を踏み入れ、この国の歴史に関わっていく。ナルニアには不思議な生き物が沢山暮らしていて、彼らから言わせると、人間は「アダムのむすこどの」だったり、「イブのむすめご」。ナルニアを訪れる子供たちの個性も色々で、中には不思議な物事に対してとても懐疑的な子もいる。皆が優等生なわけではない。子供たちはナルニアで過ごした後、現実の彼らの世界に戻って行く「さいごの戦い」ではもう戻らないわけだけど)。現実での時間の経過と、ナルニアでの時間は一致しない。ナルニアでの時は早く過ぎ、現実での時の歩みは遅い。だから、子供たちが長きにわたって、ナルニアの歴史に関わる事も出来るし、現実の社会に戻った時の違和感も少ないわけ。

実家から漸く引き揚げてきた本なのだけれど、流石に全七冊を読み直したわけではありません。印象に残っていた、「さいごの戦い」の箇所を書きたかったので、いきなりナルニア最後の本書について。

C.S.ルイス 「さいごの戦い」

ナルニア国は「偉大なライオンのアスラン」が創ったもの、本書ではその最期の様子が書かれる「偉大なライオン」が世界を「創った」という事で、まさに連想するのが聖書の世界。多少の宗教色は、やっぱり感じられる。

この最後の書の扉には、以下のように書いてあります。
辺境に住む大猿ヨコシマは愚かなロバにライオンの皮をかぶせてアスランと名のらせ、それが見破られると、今度は、破滅の神タシをナルニアによびよせてしまいます。人間界からはせ参じたジルとユースチスは、ナルニアを救うため、さいごの戦いにおもむきます。

いつもとは違い、冒頭からイヤな雰囲気。どんな冒険が始まるんだろう~、という御馴染みのワクワク感がありません。なんてったって、「ナルニア最期」なわけですから。大猿ヨコシマのせいで、ナルニアで暮らす人々、生き物達にとって辛い惨めな日々が続きます。人間界から子供たちが到着して、ヨコシマのいかさまが証明されても、一度騙された生き物達の中には疑い深く、「アスラン」「ナルニアの王」に対する不信感を剥き出しにする者達もいる。疑心暗鬼。


この本の中に大人になってからも印象深い箇所がある。

ナルニアと敵対するカロールメン人が信仰する「タシ」という恐ろしい神がいるのだけど、「タシ」を長らくまことに信仰していた年若いカロールメン人・エーメスに対してアスランが言う言葉。
「むすこよ、よくきた。わが子よ、タシにつかえたことはみな、このわたしにつかえてくれたことと思う。タシとわたしは一つではなく、まったく反対だからこそ、タシにつくすほんとうの信心は、わたしに通ずるのだ。なぜならわたしとタシとはまったく別であるから、よこしまな信心がわたしにむけられることはなく、よこしまならぬ信心がタシにむけられることはないのだ。タシにまことをちかって、そのちかいを守る者があれば、その者が知らないにせよ、その者がまことにちかった相手は、じつはわたしなのだ。」

キリスト教って様々な押し付けがあったけど、ああ、これはそうじゃないんだ、と。まことの心で信じたものは、真実の神に近づく。自分もカトリック信者なのだけど、本当にそう思う。自然や大いなるものに対する畏怖の念、尊敬の念は、きっと信仰に通じている。

更に本書はナルニア最後の書ではあるのだけれど、実はナルニア国はこれで終わりではない。

あの人たちにとって、ここからが、じつは、ほんとうの物語のはじまるところなのでした。この世にすごした一生も、ナルニアでむかえた冒険のいっさいも、本の表紙と扉にあたるにすぎませんでした。これからさき、あの人たちは、地上の何人も読んだことのない本の、偉大な物語の第一章をはじめるところでした。その物語は、永久につづき、その各章はいずれも、前の章よりはるかにみのり多い、りっぱなものになるのです。

ということで、物語が終わってしまっても、「終わっちゃったよ、しょぼーん」と淋しくならずに、またぐるぐると最初から読みたくなってしまうのです。子供の頃は、実際に無限ループしていたように思います。大人になってから読むのは引用箇所を見てもお分かりの通り、平仮名も多いし辛いかもしれないけど、いい本なのです。いろいろ考えさせられる要素が沢山詰まっているし、何よりも面白いのです。


著者: C.S. ルイス, C.S. Lewis, 瀬田 貞二
タイトル: さいごの戦い
*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたらご連絡下さい。
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