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「マンモスを科学する」

 2010-01-31-22:13
マンモスを科学する (角川学芸ブックス)マンモスを科学する (角川学芸ブックス)
(2007/03)
鈴木 直樹

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内容(「BOOK」データベースより)
1万8000年もの間、シベリアの凍土に埋もれていたマンモスは、現代の日本でどのようにして甦ったのか?さまざまま分野から多くの人が結集し、最先端の科学技術によって解き明かされた「冷凍マンモス」。世界が注目したその最新研究成果を立体的に解説。いまだ謎に包まれたマンモスの実像を総合的に解説した初めての書。

最近、一言メモのような感想しか書けてないんですが、これもまたそんな感じで…。実はマンモスにそんなに憧れがなかったのと、愛・地球博で冷凍マンモスが展示されていたという事も知らなかったので、その点では読み手としては当初盛り上がりに欠けてたんですが、そんな私でも面白かったです。

その、愛・地球博のページを見つけました。
 → マンモスプロジェクト

私がこの著者を知ったのは、テレビでやっていた仮想空間における医療システムの開発だったんだけど、現代は分業の世界になっているので、通常の場合、専門分野って深いけど狭い人の方が多いと思うんですよね。ところが、この鈴木教授は違うのです。工学博士であり医学博士であり理学博士でもある。ネットで見つけたPDFファイルによると、「医用生体工学、画像工学、生物工学を専攻。研究では、生体系のシミュレーション、医用三次元像、四次元像技術の開発、メディカルバーチャルリアリティの臨床応用などに従事」なんだそうでありますよ。あ、更にamazonの著者紹介では、「専門は、医学領域では医用生体工学、医用画像工学。理学領域では生物学、古生物学。米エクスプローラーズ・クラブ正会員。」という記述もありました。

こういう人だからこそ出来る冒険、探索、研究があるんですね。この総合力を見よ、という迫力です。どうやって育つと、こういうバイタリティがある人が出来上がるんだろう…。

その他amazonで見つけた鈴木氏の本。↓
森の奥の動物たち  ロボットカメラがとらえた森の精霊たちの姿森の奥の動物たち ロボットカメラがとらえた森の精霊たちの姿
(2009/07/31)
鈴木 直樹

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1万8000年の時を経て甦るマンモス―最先端医用技術が太古の巨獣にせまる (ニュートンムック)1万8000年の時を経て甦るマンモス―最先端医用技術が太古の巨獣にせまる (ニュートンムック)
(2005/06)
鈴木 直樹

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マンモスへの旅―いかに冷凍マンモスを発掘し研究するかマンモスへの旅―いかに冷凍マンモスを発掘し研究するか
(1996/11)
鈴木 直樹橘田 幸雄

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4次元下顎運動アトラス4次元下顎運動アトラス
(2004/07)
福島 俊士重田 優子

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「アルジャーノン、チャーリイ、そして私」/アルジャーノンとチャーリーはどこからやって来たの?

 2009-08-10-22:25
アルジャーノン、チャーリイ、そして私アルジャーノン、チャーリイ、そして私
(2000/12)
ダニエル キイス

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内容(「BOOK」データベースより)
1966年に発表された『アルジャーノンに花束を』は、全世界で出版され、多くの人々に涙と感動と生きる勇気を与えてきました。その魅力の秘密は何なのか?いかにして、またどこから、この物語は生まれてきたのか?本書は、作者自身によるその探索の物語です。白ねずみを切開した解剖実習、商船隊勤務、パン職人の見習い、大失敗に終わったパーラーでのテーブル係、自らが受けた心理療法…。やがて『アルジャーノンに花束を』に結晶し花開くまでに必要だった種子の数々が、見いだされていきます。そこには多くの喜びと苦しみ、出会いと別れがありました。ダニエル・キイスが、自らの分身ともいえるチャーリイ誕生の軌跡と、彼をめぐる物語の成長を描いた本書は、単なる創作秘話をこえた熱き感動を与えてくれるでしょう。

言わずと知れた、「アルジャーノンに花束を」という物語が、どのようにして作家ダニエル・キイスの頭の中にやって来たのか、というお話。

映像化に関する権利などのくだりは、ややこしくて良くは理解出来なかったんですが、まるで物語が最初からそこにあって、ダニエル・キイスがそこに至る細い糸を懸命に手繰っていったような姿が印象的でした。なんだかね、ダニエル・キイスにとって、最良の物語はやっぱり「アルジャーノン」なんじゃないかなぁ、と思いました。
目次
第一部 時の迷路
第二部 船から精神分析家へ
第三部 気力の勝利
第四部 著作の錬金術
第五部 ポスト・パブリケーション・ブルース
 私の「もし……だったらどうなるか?」がじっさいに起こったこと
 謝辞
プロットは既に出来ていたものの、書き出し、視点に悩んでいたダニエル・キイスの元に現れたのが、英語特別クラスにいたある少年なのだという。

「ここはバカクラスだって知ってるよ。だからぼく、訊きたかったんだ。もしいっしょうけんめい勉強して、学期のおわりに頭がよくなったら、ふつうのクラスに入れてもらえる?ぼく、利口になりたい」

「ぼく、利口になりたい」、少年のこの言葉が、あのチャーリイ・ゴードンに息を吹き込んだのだという。この出会いがあって、あの完璧な物語が出来たのですね。

↓こちらは、ダニエル・キイス文庫。
アルジャーノン、チャーリイ、そして私 (ダニエル・キイス文庫)アルジャーノン、チャーリイ、そして私 (ダニエル・キイス文庫)
(2005/11)
ダニエル キイス

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「アンジェラの祈り」/灰と祈り

 2009-04-14-23:55
アンジェラの祈り (新潮クレスト・ブックス)アンジェラの祈り (新潮クレスト・ブックス)
(2003/11/26)
フランク・マコート

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「アンジェラの灰」(感想)のフランク少年が、アメリカに渡ってから。

実際、ほんとうの意味で一家がまた揃うことはなかったのだけれど、それでも一家がリムリックに張り付いていた頃よりも、幸せな日々が描かれる。ま、本当の意味で幸せか?、というと、そうでない場面もしっかり描かれるんですが。母をアメリカに呼び寄せてから。何はなくとも、きちんと入れたお茶が必要な母(というか、アイルランドの母と言えば、とりあえずお茶みたい)、狭くとも家族全員が揃って暮らしていた暮らしから、母に与えられたのはティーバックのお茶と、一人暮らし…。それでも、兄弟には既にそれぞれの生活があるわけで…。血が近いゆえの甘え、近いゆえの怒りなんかが描かれるのは、まさに大人になったからんでしょうね。

「アンジェラの灰」を読んだ時に、弟マラキの方が生きにくくて、フランクの方が生き易くなるのかも、なんて思ったんですが、実際はマラキはニューヨークに行っても、バーの経営に成功し、一方のフランクは貧しいまま。

ホテルの清掃係から、軍隊生活、波止場でのトラックの積み荷卸し、…そして高校教師へ。アイルランドにいると、アメリカに貧しい人がいるなんて信じられない。しかし、案の定、フランクの生活はかなりの貧しさ。フランクの仕送りは、弟アルフィーの新しい靴に、クリスマスのご馳走に(豚の頭から進歩してるんです!)、母とアルフィーが暮らす新しい家になる。弟たちが同じくニューヨークにやって来て、かつ彼らが成功をおさめていても、それでもフランクは仕送りは欠かしていないよう。

しかし、ふわふわとした語り口(ところどころを締めるのは、「ガッデム!」という誰かの叫びなんだけど)のせいか、時系列で何が起こっているのかは何だか分かり難いのです。一定のテンポで進んでいた前作に比べ、時間は伸びたり縮んだり。

念願の大学生となり、自分には勿体ないような美人のガールフレンドが出来、そして更に彼女に結婚を迫られても、既にそれなりの年齢になっているにも関わらず、フランクは安定を求めるのはまだ早過ぎる、と考えたりもする。マラキに比べ、堅実に生きているかのように見えても、実際は、「たいへんな一日を明日に控えた私だもの、ここは景気づけにビーンポットバーでビールの二、三杯飲むのはしかたがない。」なんて感じで、「~だもの。~なのもしかたがない。」の繰り返しで、自分にとっても甘い甘い。彼女との約束があろうが、次の日に大切な何が控えていようが、ずるずると飲みに行ってしまい、自分の世界に戻っていくことが出来ない所には、父マラキの影を感じてしまう。お金に関しては、たぶん、父よりマシなんだけど(というか、子供が沢山いないから?)。

完全な堅気の生活とは言えなくて、フランク自身が、決まりきった暮らしよりも、所謂アーティストのような暮らしを好んでいるよう。それでも、実際は弟マラキたちのようにパーティを巧みに回遊することも出来ないし、本質的にはとても泥臭いようなんだけど…。自分の世界に戻って行っても、遊んでいる誰かを考えると淋しいし、かといって遊んでいる場所にずっといても、何だか居場所がないような感じ?

高校教師になってから、評判の良くない高校の生徒たちを手懐けたようにどこかで書いてあったので、そういうお話かと思ったら、そういった部分はほんとにちょっぴり。あと、ずっと気になっていたんだけど、フランクが出会い、恋におち、結婚し、娘を設けた女性とは、違う名前が献辞にあるんですよね。そういう意味で、本作は幼少期を丹念に描いた前作とは異なり、フランクの生涯全てをきちんと追った話ではないのでした。

ほんとうに細部まで描かれた「アンジェラの灰」とは違って、細かい話もあれば、ぐーんと飛ばしてしまう部分もある。より小説的になったとでも言うのかな?

「翻訳文学ブックカフェ」(感想)より、訳者の土屋政雄さんの対談の中での言葉を引用します。

そこまでの何十年という積み重ねがあるんで、『灰』で全部を吐き出せたわけではなかったんではないかな。だから、『祈り』はまた違った新しい作品ということではなかったんでしょう。『祈り』にも『灰』を書く以前から書きためていた文章が入っているでしょうし。強いて違う点を挙げるとすれば『祈り』のほうが普通の英語になっているんじゃないかという点ですかね。全部現在形で通してる『灰』と、過去形だのなんだのが入ってきてる『祈り』という感じ。まあそれぐらいで、作家として劇的に変わったという印象はありませんよね。

『灰』も文庫で上下分冊と長かったんですが、『祈り』もまた背表紙の厚さなどが半端なく、ながーいお話です。それでも、長くて退屈するようなことはなかったです。父のエピソードも良かったな。母譲りなのかもしれないけど、何があってもフランクは人を恨むことがないのです。淡々と事実として描かれる中には、恨んでもおかしくないこともあるし、そもそも赦せないと言えば、彼らの父もそうでしょう。赦すというか、そんな弱い人を認めてあげただけなのかもしれませんが、そういう所も、このいっそ陰惨にもなってしまう話が、多少感傷的になったとしても、明るく読めてしまう一因なのかもしれません。

『灰』を読まれて良かった方は、『祈り』も読まれた方がいいんじゃないかなー。やはり、『灰』あっての『祈り』で、狭い範囲の子供の視点から語られた『灰』からすると、一気に広がった視点に最初はちょっと戸惑うかもしれないけれど。

クレストブックスお馴染みの裏表紙の書評の一人は、佐伯一麦さん。うーん、人選がいいですね、これ。

「アンジェラの灰 上・下」/家族

 2009-03-31-20:59
アンジェラの灰 (上) (新潮文庫)アンジェラの灰 (上) (新潮文庫)
(2003/12/20)
フランク・マコート

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アンジェラの灰 (下) (新潮文庫)アンジェラの灰 (下) (新潮文庫)
(2003/12/20)
フランク・マコート

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子供のころを振り返ると、よく生き延びたものだと思う。もちろん、惨めな子供時代だった。だが、幸せな子供時代なんて語る価値もない。アイルランド人の惨めな子供時代は、普通の人の惨めな子供時代より悪い。アイルランド人カトリック教徒の惨めな子供時代は、それよりもっと悪い。
どこの国にも、幼いころの惨めさを得意気に語る人がいる。涙ながらに語る人もいる。だが、アイルランド人の惨めさは桁が違う。貧困。口ばかり達者で甲斐性なしの、飲んだくれの父親。打ちのめされ、暖炉のわきでうめくだけの信心深い母親。偉ぶった司祭。イギリス人と、そのイギリス人が八百年ものあいだつづけてきたひどい仕打ちの数々……。
それよりも何よりも、私たちはいつも濡れていた。(p7-8より引用)

貧乏、無知、迷信、無理解、不衛生…。まさに引用箇所にもあるように、読みながら良くこれで生き延びられたものだなぁ、と思うのです。実際、弟妹のうち、何人かは幼くして亡くなってしまうのだけれど…。いやー、実のところ人間は揚げパンとお茶、もしくはタバコとアルコールだけで生きられるもんなんでしょうか。明らかにビタミンだのタンパク質なんかが不足してます。

ところが、この前に読んだ「石のハート」(感想)なみに不幸な家庭かというと、これがそうではないんです。どん詰まりもいいところの状況にはあるのだけれど、どこか温かい視線すら感じるのです。父親の口癖、「アッハ、」は原語ではどんな言葉なんだろうな。この言葉がこの文章の独特なリズム感に一役買っているように思うのです。「翻訳文学ブックカフェ」(感想)を読んだ時に、訳者、土屋政雄さんが、この「アンジェラの灰」について言及されていたんだけど、原文の子供言葉の処理、お見事でありました。

飲んだくれの父親。お話をしてくれる父親。アイルランドのために死ぬことを誓わせる父親。少年フランク(フランキー)は父親はまるで三位一体のようだと思う。この父親が一緒に住んでいる時も全く役に立たないんだけど、家族をリムリックにおいて、お金を稼ぐためにイギリスに行ってからも、相変わらず全く役に立たないんです。週末、路地の他の家には、電信為替が届いても、マコート家に為替が届くことはない。例えば、幼い弟、マイクルなんかは、父親を見限って、母親にべったりになることが出来る。けれど、フランクにはそれが出来ない。フランクはクーフリンのお話をしてくれた父を覚えているから。長男の悲哀を感じてしまいます。

チフスで死にかけ入院した病室で、シェークスピアや詩に出会ってからが、私には俄然面白くなりました。しかめっ面で、北の出身の父親に良く似ていると言われ続けてきたフランクが、誰からも愛される弟マラキを巻き返したようにも思います。逆に大人になってからは、マラキの方が辛いんじゃないかな、と思ったり。

印象的だったのが、フランクが十四歳の誕生日を迎え、郵便局の臨時雇いになり、電報を配達をしていたときのお話。チップをはずんでくれるのは、お金持ちでは決してなく、フランクたちと同じような貧乏な人々でした。貧しく無知な中にある、信頼や感謝の念に打たれるのです。

しかし、信仰が何の助けにもなってないところが哀しくもあり。何せ「カトリック教徒の惨めな子供時代は、それよりもっと悪い」んです。司祭や教師が強要するこれは、信仰というかほとんど脅し。

これを読んでも、表題の意味は分かりません。訳者によるあとがきによると、続編「アンジェラの祈り」を読むと、この「灰」の意味が分かるのだとか。あ、アンジェラとは、フランクの母の名です。

こちらは「アメリカに渡ったマコート青年の悪戦苦闘ぶりに目を丸くすること請合い」で、「父マラキ、母アンジェラ、弟三人(マラキ、マイクル、アルフィー)にも再会できる」とのこと。そう、ラストはフランクがアメリカに渡るところで終わるんだけど、父親はイギリスに行きっぱなしだし、このまま家族が生き別れても全く不思議ではないのです(というか、父親に至っては、途中で死んでるんじゃ…、と疑っていましたよ)。マコート一家がもう一度全員揃うだなんて、この段階ではほとんど奇跡に思えるのだけれど、これがノンフィクションだというのだから凄いよねえ。

さっそく「アンジェラの祈り」も予約しちゃいました。

■Wikipediaの「クー・フリン」の項にリンク

「アンディとマルワ-イラク戦争を生きた二人の子ども」/イラク戦争は何をもたらしたのか

 2008-09-10-23:44
アンディとマルワ―イラク戦争を生きた二人の子どもアンディとマルワ―イラク戦争を生きた二人の子ども
(2008/03)
ユルゲン・トーデンヘーファー

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目次
 政治的なまえがき
プロローグ
第一章 二〇〇一年九月十一日
第二章 アンディの日々
第三章 マルワの日々
第四章 アンディ―開戦まで
第五章 マルワ―開戦まで
第六章 アンディ―戦場へ
第七章 マルワ―開戦の日
第八章 アンディ―二〇〇三年四月七日
第九章 マルワ―二〇〇三年四月七日
第十章 アンディ―帰郷
第十一章 マルワ―アスラーはどこ?
第十二章 アンディ―母ノーマの闘い
第十三章 マルワ―夢へ
エピローグ
 政治的なあとがき
 その後のアンディとマルワの家族―日本語版によせて
 訳者あとがき
イラク戦争は何をもたらしたのか? 折しも、ブッシュ大統領が駐イラク兵士8000人の撤退計画を発表したところだけれど、これはイラク戦争をミクロな視点で追った本です。

著者が追うのは、予備兵として海兵隊に入隊し、そのまま前線へと送られ、戦死することになったアンディと、アメリカ軍の爆撃により片足を失ったイラクの少女、マルワ。

もちろん、大人であれば、経験を積んだ兵士であれば、戦死しても良いというわけではない。しかし、大学入学を控えた、ろくな経験もない、十八歳の予備兵の少年が、なぜ死ななければならなかったのか? 海兵隊の資料を請求すれば、重量挙げ用グローブを進呈する。スポーツ週刊誌を見て、資料請求したアンディの元にやってきたのは、グローブではなく一本の電話。男らしい訓練、グローブに惹かれたアンディ。9.11事件の前、世界はいかにも平和に見え、海兵隊での経験は、アンディの人生の一つのエピソードになるはずだったのだが…。

一方のマルワ。9.11のテロ攻撃には衝撃を受けたものの、それは遠い国の出来事でしかなかった。貧しいながらも、両親や兄弟たちと幸せに暮らしていた彼女の生活に、父の死をはじめとする様々な影が落ちるようになる。そして、特に仲良しの美しい妹、小児科医になる夢…。全てが断ち切られる時がやって来る…。軍事施設などない、貧しい地区に、なぜクラスター爆弾などが落とされたのか。

アンディとマルワの二人を繋ぐのは、その不幸が訪れた日付。イラクにもアメリカにも、たくさんのアンディやマルワがいるのでしょう。

所々で挿入される、ブッシュ大統領による演説の実に空しいこと。戦争において犠牲になるのは、権力者たちでは決してない。

ミクロを追ったと書いたけれども、著者、ユルゲン・トーデンヘーファー氏は、一九七二年から九〇年まで、ドイツ最大の保守政党CDU(キリスト教民主同盟)において、開発及び軍縮政策のスポークスマンを務めた人物だそう。「政治的なまえがき」、「政治的なあとがき」では、そんなわけで感情だけではない、マクロなお話も出てきます。とはいえ、著者について特筆すべきは、その感情の熱さでしょう。それではナイーブ過ぎる? それは理想論に過ぎる? 著者はそんな問いを軽々と飛び越えていくだろうし、この本にはそういうパワーがあります。

それでも、現実は厳しいです。「その後のアンディとマルワの家族」で、読者はこの本が出来るまで、つまり著者のバクダッド旅行、滞在において力を貸してくれた人たちの死を知ることになる。

マルワをドイツに連れて行き、手術を受けさせ、義足を作ってあげた皆の善意。それでも、こういった善意を一瞬で吹き飛ばしてしまう、国家による施策がある。

もしアメリカが、これまでにイラク戦争に注ぎこんだ一千億ドルをはるかに超える金額をアラブ世界の開発プロジェクトに投資していたなら、テロリズムとの闘いにおいて、国際法にもとるイラク戦争とは比べようもないほど多くの成果があがったことだろう。
(「政治的なまえがき」より引用)

「ジェノサイドの丘・下」/終わらない悪夢とほんの少しの希望

 2008-05-03-00:33
ジェノサイドの丘〈下〉―ルワンダ虐殺の隠された真実ジェノサイドの丘〈下〉―ルワンダ虐殺の隠された真実
(2003/06)
フィリップ ゴーレイヴィッチ

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上巻においても、とてもとてもルワンダで起こった大虐殺を理解出来たとは言えなかったんだけど、下巻においては更にそれが加速してしまいました。上巻が主にルワンダの人々個人にスポットがあてられたのに対して、下巻では所謂「国際社会」の「人道支援」について、隣国ザイール(コンゴ)も含めて、多くが費やされている。そのため、色々とこんがらがってしまいました。時系列も、上巻と被っていても、また違うことが書かれているし…。

覚えておきたい部分を引用します。

ジェノサイドとそれに対する世界の反応を論じていたとき、カガメ将軍がこう言ったことがある。「我々に悲しむなと言わんばかりの人もいる。我々は動物のようなものだと思っている。家族を失ったら、慰めて、お茶とパンをくれて―そして忘れてしまえと言う」カガメは舌打ちした。「我々を見下しているんじゃないかとさえ思う。よく、ソーダ水を配っては、『これをやっちゃいけない、これをやるべきだ、これはしない、これをしろ』と言いたがるヨーロッパ人と言い合いになった。わたしは『あんたには感情ってもんはないのか?』と言った。その感情にみんな苦しんでいる」 (p219-220より引用)

カガメの理解するところでは「アフリカと西側諸国は多くの点で隔たっている」だが国際社会にとっての敗北が誰にとっての勝利でもないかもしれないと、カガメはわかっているようだった。カガメはこれまでひたすら中央アフリカで、「文明社会」と呼んでいたものと戦うのではなく、そこに仲間入りするために戦ってきた。だが、今や世界は「難民問題」を利用して自分たちの進歩を破壊しようとしている。「それが彼らの本当の目的なのだ。人権などではなく、もっと政治的なものだ。『この発展は押しつぶしてしまえ。アフリカ人が勝手に自立しようとしている危険な発展はつぶしちまえ』ということなんだよ」(p224より引用)

繰り返し語られるのは、「援助」が無駄どころか、新たな害悪を撒き散らす姿。金、人、物資の誤った使い方には、思わず暗澹たる気持ちになってしまうほど…。国連で働くということも、イメージで思っているほど、綺麗なことでも、理想を追うことでもないんだろうなぁ、きっと。

ルワンダの悲劇の一つは、隣人を殺した人間と、生き残った人間が、同じ場所でもう一度生きなおさなければならないこと。これほど過酷な環境で、赦し(とはいえ、命令に従っただけと、真顔で話す殺人者には、自責の念すらないこともあるのだ)が必要とされるのは、本書でも言及されていたけれど、人類史上まれに見ること…。この苛酷な状況の前には、本当に声も出ない。
□上巻の感想にリンク
□ルワンダ支援のために活動しておられる、「ワンラブプロジェクト」さんのルワンダ事情にリンク
□Wikipediaのポール・カガメの項にリンク
□Wikipediaのモブツ・セセ・セコの項にリンク

「ジェノサイドの丘・上」/民族という悪夢

 2008-04-01-00:04
ジェノサイドの丘〈上〉―ルワンダ虐殺の隠された真実ジェノサイドの丘〈上〉―ルワンダ虐殺の隠された真実
(2003/06)
フィリップ ゴーレイヴィッチ

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扉から引きます。

「一割間引き(デシメーション)」とは十人に一人を殺すことを意味するが、一九九四年初夏、ルワンダ共和国では大虐殺によって人口の一割が殺された。殺害はローテクなものだったが―主として山刀(マチェーテ)が使われた―驚くべきスピードだった。七百五十万人の人口のうち、少なくとも八十万人がわずか百日のあいだに殺された。ルワンダ国内では死者百万人とも言われているが、こちらの数字の方が正しいかもしれない。ルワンダの死亡率はホロコースト中のユダヤ人のほぼ三倍に達する。これは広島と長崎への原爆投下以降、もっとも効率的な大量虐殺だった。


大量虐殺とは混乱の中で行われるものではない。粗末な武器で、ひたすらに隣人を、かつての友人を殺し続ける。それには組織的な力が必要であり、殺される側がその運命を受け入れるという特殊な状況も必要となる。なぜ多くの人が殺す側に回ったのか、なぜ多くの人たちが唯々諾々と殺されていったのか。それは一九九四年に、突然始まったものではないのだ。

著者、ゴーレイヴィッチは、ルワンダの不幸をヨーロッパによる侵入、及び植民地化に見る。それまでは、自分たちの国が世界の中心であると考え、多様な人種が君主の元に団結していたルワンダの人々は、ベルギー人たちによって分断される。ベルギー人たちは、ヨーロッパ的身体特徴を持つツチ族が優性であり、アジア的特徴を持つフツ族を劣性であると、位置づけたのだ(そして、「人種」を持ち込んだベルギー自体も、人種の境界線によって分断された国家であるというこの皮肉)。ツチ族は支配者としての地位や教育を与えられ、一方のフツ族は支配される者となった。

そして、この後、ルワンダにおける政治闘争は平等を求めるものではなく、二つに分かれた民族のどちらが支配的地位につくかの争いとなる。

一九五七年 フツ族知識人グループが『フツ宣言』を出版し、「民主主義」を求める
一九六〇年 ツチ族首長をフツ族にすげかえるクーデターが演出される
一九六一年 君主制が破棄され、ルワンダが民主主義国家となる
一九六二年 ルワンダが独立国家となる

国家が動いていく間、個人には何が起こっていたのか。ルワンダのツチ族は、恐怖で年を数えるのだという。五十九年、六〇年、六一年、六三年…九四年。家が燃やされ、人々が殺される。なぜ自分が生き残ったのかもわからないながら、恐怖をどう生き抜いたのか、その記憶が彼らの人生を形作る。

逃亡したツチ族貴族たちが率いる武装集団によるルワンダ襲撃は、より悪い結果をもたらす。それは、フツ族政府がツチ族市民を攻撃する絶好の理由となるのだ。他人種への反目には、市民意識を高める効果がある。政治的に煽られた民族熱は、最悪のシステムを作り出す。人間は一人で生きるものではなく、共同体の中で生きるものであるけれど、協調性や勤勉さなどの美徳とも言える性質が、もしあらぬ方に走ってしまったとしたら? 殺人とレイプが決まり事になってしまったら?

さらに国内だけではなく、国外からも様々な資金や武器が調達されるとしたら…。ツチ族反政府派のルワンダ愛国戦線(RPF)と、フツ族政府軍、ルワンダ武装警察(FAR)の戦いは、そのままルワンダが植民地だった頃へと遡る。英国系のRPFに対抗して、フランスはFARに加担する。そうして潤沢な資金や武器がルワンダに流れ込み、またFARは、「内なる敵」である無力なツチ族市民の撲滅に執念を燃やす…。

結局のところ、ジェノサイドはコミュニティ形成の実践だった。全体主義の強力な命令は全住民をリーダーの計画に組織する。ジェノサイドはそれを実現するための、もっとも異常かつ野心的な、だが同時にきわめてわかりやすい方法だった。一九九四年のルワンダを、外の世界は崩壊国家がひきおこす混乱と無政府状態の典型だと見なしていた。事実は、ジェノサイドは秩序と独裁、数十年におよぶ現代的な政治の理論化と教化、そして歴史的にも稀なほど厳密な管理社会の産物だったのだ。   (p117)


その中で個人に何が出来たのか?
ここで描かれるのは、対照的な二人の姿。

一人は国連ルワンダ支援団(UNAMIR)の国連軍指揮官のカナダ人ロメオ・ダレール少将、もう一人はホテル、ミル・コリンのマネージャー、ポール・ルセサバギナ。

ダレール少将は、虐殺や略奪を止める手段や力を持っていたにも関わらず、それを行使する事無く、ただツチ族が殺されていくのを見守るしかなかった。彼の報告と提案が、「UNAMIRの任務を越える」として、事務局の同意を得られなかったために…。

一方のポールは(これ、たぶん、「ホテル・ルワンダ」の人ですよね)、生き残っていた電話線に気づき、FAXを送り、電話で話し、世界中に叫び続ける。ホテル内に匿った人々に対し責任を持ち、様々なコネを駆使し、とりあえずその日、その人を殺させない、連れ去らせないことを念頭に、何とか日々をしのぎ続ける。

何がポールとその他の人々、たとえば教会に避難してきたツチ族信者たちの元へ、彼らを殺害する警官を案内した神父や、力を行使する事無く人々を見殺しにした国連軍少将とを分けたのだろう。ポールは、それを”自由意思”に求めるが…。何者として生き、何者として死ぬべきか。しかし、あまりに多くの人々が、非人道的行為を受け入れてしまっていた。

色々な人々や国の事情にズームしていくような感じなので、多角的には分かりやすいのだけれど、なかなかこれを理解出来たとは言えないです。

確か、当時もちらりと不思議に思っていたアメリカの「ジェノサイドの行為が起こったかもしれない」という、曖昧な言い回し。これは、ジェノサイド条約があったからだったのですね。ジェノサイド条約の締結国は、国家が殺人を防止し処罰するように、素晴らしき新世界の警察となることを誓ったのだが…。あまりに道徳的ユートピア過ぎるこの条約は、結果として形をなさず、アメリカがゴーサインを出し渋っている間、ルワンダでは人が殺され続けた。

加害者、被害者、権力者、反権力者が分かり辛いのも、ルワンダの問題の特徴なのか。一九九四年のジェノサイドにおいて、「ターコイズ作戦」によってフランス軍が支援したのは、ジェノサイドを行った地域リーダーたちであり、ジェノサイドの罪から逃れるために、難民となったのは彼らジェノサイドの首謀者たちであった…。

上巻を読んだだけでも、それはそれは救いがなく、ここまでで全ての不幸が描かれているようにも思ってしまうのだけれど、下巻ではさらに何が描かれるのか。

ルワンダの問題が突発的に起こったものではなく、悪夢のようなシステムが形作られてしまったために起こってしまったことが良く分かった。こんなシステムを作り上げてしまったのは、勿論人間であり、それは天災でも何でもないことも。

陰惨たる描写に途中で投げ出してしまったのだけれど、「戦争における「人殺し」の心理学」を思い出した。結局、「人間性」なんてものは、一旦どこかが掛け違われてしまえば、いくらでも酷い事が出来てしまうんだなぁ…。
Wikipediaのルワンダ紛争にリンク
戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)
(2004/05)
デーヴ グロスマン

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ホテル・ルワンダ プレミアム・エディションホテル・ルワンダ プレミアム・エディション
(2006/08/25)
ドン・チードル、ソフィー・オコネドー 他

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□下巻の感想にリンク

「火星の人類学者」/ダイナミックで複雑な脳というもの、わたしたちの世界

 2007-01-31-23:09
オリヴァー サックス, Oliver Sacks, 吉田 利子
火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者

目次
 謝辞
はじめに
色覚異常の画家
最後のヒッピー
トゥレット症候群の外科医
「見えて」いても「見えない」
夢の風景
神童たち
火星の人類学者
 訳者あとがき

ここに描き出されるのは、七人の「特殊」な世界に生きる人々。

事故により色を失ってしまった画家、脳腫瘍により1960年以降を生きる事が出来ない青年、衝動的行為という障害を持つ外科医、見えない世界から突如見える世界へと連れ出された青年、過去の記憶に傅く画家、高い芸術力を有する自閉症の少年、そして最後がいま一人の優れた自閉症の女性。

自己や世界の認識の仕方について考えさせられる。

豊穣な色の世界に生きてきた画家が、放り込まれたのは、全てが色褪せたダークグレイに見える世界。自らが生きる新しい世界に絶望した彼であったが、ある日、まるで爆弾のように太陽が昇る、力強い日の出の様を見て変わる。白と黒の絵ならば描ける。むしろ、白と黒の世界に生きる自分だからこそ、描けるものがある(色覚異常の画家)。

始終、身体を捩ったり、奇妙なふざけた動作をせずにはいられない、トゥレット症候群。安定した細かい正確な作業が必要とされる外科医などは、問題外の職業だと思われるのだが・・・。ベネット博士は、重度の患者でありながら、実に優秀な外科医であった。彼がいうには、トゥレット症候群は、誰もが抑制している、知らずに持っているような原始的な本能を『呼び覚ます』(トゥレット症候群の外科医)。

見えない世界から、見える世界へ。「見え」さえすれば、世界が変わるかと思われたが、それまで彼が作り上げてきた「見えない」世界はとても強固なものであった。「見る」ことにも経験が必要であり、「見えて」いることと、「分かる」こととは別であり、時間の流れに従って触覚で認識する、「見えない」世界からの移行は非常に困難なものであった。触覚、聴覚、嗅覚の印象の連続によって世界を作り上げる彼らには、同時的な視覚認識が難しく、大きさや距離感が分からないのだ。そして、この彼、ヴァージルにはまた数奇な運命が待っていた(「見えて」いても「見えない」)。

一人の少年の事を書きながらも、タイトルは神童「たち」。スティーヴンは、一つには彼が持っていた芸術的才能のおかげ、また一つには彼を熱心に支援する人たちのおかげで、自閉症児たちの幸運な例外となった。芸術的才能を持つというだけでは十分ではなく、認められず支援されない、同じ才能を持つ自閉症の人々も少なくはないのだ。それらの人々は、スティーヴンに与えられたような、変化や刺激もないままに、ただ埋もれていく・・・(神童たち)。

テンプル・グランディンは、自閉症にもかかわらず、動物学で博士号を取り、コロラド州立大学で教え、事業を経営している。彼女は如何にして、破壊的で暴力的だった子供時代を通り抜け、優秀な生物学者であり、技術者である今の姿を獲得したのか。人の微妙な感情やニュアンスが分からないという彼女は、何年もかけて膨大な経験のライブラリーを構築したのだという。彼女はまるで「火星の人類学者」のように、人という種について学ぶのだ。
理知的に理解出来ること以外は理解出来ない彼女は、自分が普通の意味での対人関係を獲得する事が出来ないと諦めて(というか、理解して?)いるが、そんな彼女の作った「抱っこ機」は何だか切ない。小さい頃、抱きしめて貰いたくてたまらなかったけれど、同時に、彼女にとって人との接触は自分が呑み込まれてしまうような恐怖でもあった。「抱っこ機」は幼い頃に彼女が夢見た、力強く、優しく抱きしめてくれる魔法の機械を実現したもの。家畜の気持ちを誰より理解し、家畜の痛みや不安について誰より心を砕き、抱っこ機で安らぐ彼女は、とっても魅力的なのだけれど・・・(火星の人類学者) 。

自分が当たり前に見て、みな共通だと思っている世界とて、実は曖昧であやふやのものにしか過ぎず、ほんの少し何かが損なわれるだけで、違った世界に放り込まれてしまうのかもしれない。そもそも「正常な」人間だって、みな同じように世界を構築しているとは限らない。しかしながら、違った世界に居てもなお、そこで適応していく力が、与えられている場合もある。「違った」認識だからこそ、優れた業績を残せることもあるのだ。それは幸運な例に過ぎないのかもしれないけれど・・・。

脳神経科医が記す本書。一人の患者について話しつつも、時に誰々の場合も同じだった、などというフレーズが入ったり、専門的な記述もあるけれど、基本的には一人一人に出来うる限り、寄り添ったものであると思われる。特に「火星の人類学者」におけるテンプル・グランディンには、著者自身も強い感銘を受けたのではないのかなぁ。

 ← 文庫も。

テンプル グランディン, マーガレット・M. スカリアーノ, Temple Grandin, Margaret M. Scariano, カニングハム 久子
我、自閉症に生まれて
テンプル グランディン, キャサリン ジョンソン, Temple Grandin, Catherine Johnson, 中尾 ゆかり
動物感覚―アニマル・マインドを読み解く

「心臓を貫かれて」/家族とは何か

 2006-04-29-11:35
有閑マダムさんの所で知った本書。分厚いです、重いです(内容、質量共に)。

有閑マダムさんの記事はこちら

マイケル ギルモア, Mikal Gilmore, 村上 春樹
心臓を貫かれて
 
目次
プロローグ
第一部 モルモンの幽霊
第二部 黒い羊と、拒絶された息子
第三部 兄弟
第四部 ある種の人々の死にざま
第五部 血の歴史
第六部 涙の谷間に
エピローグ

何とも刺激的な「心臓を貫かれて」というタイトルに、心臓を描いた表紙。

ここでいう、「心臓を貫かれて」とは比喩表現ではない。実際に、著者マイケル・ギルモアの兄、ゲイリー・ギルモアは「心臓を貫かれて」死んだのだ。

モルモン教においては、かつて「血の贖い」と呼ばれる一つの教義があったのだという(ただし、近年に至っては、モルモン教会はこのような解釈を否定している)。

 もし人が命を奪ったなら、その人の血は流されなくてはならない。絞首刑や投獄は、罰としても償いとしても十分ではない。死の方法は、神への謝罪として、地面に血をこぼすものでなくてはならない。      (P43より引用)

著者の兄、ゲイリー・ギルモアは、二人のモルモン教徒の青年を殺害し、死刑宣告を受けた。おりしも、時代は死刑制度を復活させたばかりであり、更に犯罪の舞台となったユタ州は、死刑復活の法案をいち早く通過させた最初の州のひとつだった。

ゲイリー・ギルモアは現代アメリカにおいて、時代を代表する犯罪者の一人であり、彼の生涯はベストセラー小説の題材となり、テレビ映画にもなったのだという。この現代において、正直、人を二人殺したからといって、(それは勿論大変な事ではあるけれど)稀代の犯罪者となるわけではない。ゲイリーが有名になったのは、罪科の故ではなく、自らの処罰決定に彼自身が深く関わったから。ゲイリーは死刑判決に対して上告する権利を放棄し、刑の執行を望み、望みどおりに銃殺されたのだ。日本で言えば、池田小児童殺傷事件の宅間守を思い出す。彼らの望みどおりという意味で、「死刑」は既に罰ではなく、合法的な自殺であったとも言える。

さて、本書はこのゲイリーの実弟マイケルが著したものであり、なぜゲイリーが殺人を犯し、銃殺刑を望むに至ったのか、彼らの両親の育った環境まで遡って、丁寧に辿られる。年の離れた兄弟であったゲイリーとマイケルは、その生活環境や少年時代の家庭環境においてもかなり大きな隔たりがあり、マイケルはこの本を書くことによって、家族を取り戻したのだとも言える。たとえそれが、おぞましく暗い家族であったとしても。

そんなわけでこの本には、死刑制度の問題や家族の問題、虐待の問題、家族における秘密の問題、宗教の問題など、どれをとっても重いテーマが含まれている。

人は怪物になることが出来るし、怪物を作り出す事も出来る。
しかもそれが、本来守られるべき、憩うべき場所である家庭で起こることもしばしばあるのだ。

ここからは、細部の感想になります。
長いけれど、よろしければお付き合いくださいませ。

 一人また一人、順番にみんなが死んでいくのを見てきた。最初は父だった。それから兄のゲイレンとゲイリー。最後が母―見る影もなく打ちのめされ絞りとられたひとりの女。あとに残ったのは末っ子の僕と、長男のフランクだけだ。でもある日、家族の歴史の苦痛に耐え切れなくなったとき、フランクは何も言わずに陰の世界へと足を踏み入れていった。        (P24より引用)

 僕は今、家族の中に戻っていきたいと思っている―その物語の中に、伝説の中に、記憶と遺産の中に。僕は家族の物語の中に入り込みたいと思っている。ちょうど僕が、みんなで少年時代を過ごしたあの家を囲む夢の中に入り込みたいと、ずっと望んできたように。そこに入り込んで、いったい何が夢を台なしにして、かくも多くの生命を破滅に追い込んだのかを、探り当てたいと思う。
 どうやら家族の過去の構造が、僕にとっての謎の中心にあるらしい。その過去の歴史を検証することによって、解決の鍵を―そうか、こいつがかくも多くの喪失と暴力をもたらしたのか―見出すことができればと思う。それが解明できたなら、僕はさらなる喪失をまぬがれることができるかもしれない。
 僕は過去に戻る。自分には何も見出せないかもしれないと危惧しつつ、あるいはその一方で自分があまりに多くのことを見出してしまうかもしれないと危惧しつつ。でもこれだけのことはわかっている―僕らはみんな、僕らが生まれるずっと前に起こった何か、知ることを許されなかったその何かに対しての代償を支払ってきたのだ。   
                     (P25より引用)

読者はマイケルとともに、この家族の中に深く入り込んでいく事になる。

四兄弟のうち、年の離れた兄弟であったマイケルは、幸いにも他の兄弟たちのように父に虐待されて育ったわけではなかった。彼らの父フランクは、息子が彼に反抗することを許さなかった。父が年老いたということもあるけれど、マイケルの場合、反抗期を迎える前に、父が亡くなってしまったというわけ。兄弟のうち、真に父親を愛す事が出来たのは、唯一マイケルだけであるといえる。意味もない精神的、肉体的虐待を受けた相手を愛する事は難しい。愛して欲しいと願っても、返って来るのは虐待ばかりなのだ。また、マイケルは一つ所に落ち着いて暮らすことが出来たが、他の兄弟達はそうではなかった。彼らはまるで何かから逃げるように、移動に移動を重ねる家庭の中で育ち、そこには常に父による暴力があった。

しかし、以下の言葉もまた真実なのだろう。地獄を共にする事で、家族となるのであれば、その地獄を共有しなかったマイケルは、真に家族であるという実感をもてなかった。であるから、マイケルはこの本を書かなくてはならなかったのだろう。

 おそらく、同じ地獄を通り抜けなくてはならなかったが故に、たとえ一時的であるにせよ、兄たちはほんものの兄弟であったのだ。それらの写真に写っている顔を目にするとき、僕は彼らを憎む。憎みたくなんかないのだが、憎まないわけにはいかない。兄たちを憎むのは、彼らの写真の中に僕が含まれていないからだ。兄たちを憎むのは、僕が彼らの家族の一部ではないからだ。たとえそれがどのような恐ろしい代償を求められることであったとしても。     (p77より引用)

僕らはみんな、僕らが生まれるずっと前に起こった何か、知ることを許されなかったその何かに対しての代償を支払ってきた」。本書には時々オカルトチックな場面が出てくるのだけれど、それらの現象はここでいうこの「何か」に端を発しているように見える。彼らの父であるフランクが抱えていた謎、母ベッシーが、兄ゲイリーが墓場まで持っていってしまった謎。ネタバレしてしまいますが、本書の終わりに至るまで、実はこの謎は解明される事はない。ノンフィクションではあれど、この謎にミステリー的な興味を抱いた私には、ここの部分はちょっと肩透かしではあっ

少々の事では動じないと思われる、母ベッシーや兄ゲイリーが立ち聞きしてしまったことを後悔するほどの、父の抱えていた大きな謎。それは一体どんなに恐ろしいものだったのか。家族は秘密を抱えたまま、家族たりえるのか。それが分からない事で、余計恐ろしいものに見えるようにも思うし、暗い、重い秘密は染み出て、その家族に影を落とすのではないか、とも思った。「謎」を抱えたまま、人生を生き抜くのは辛いこと本書を上梓したあとの、マイケル・ギルモアの人生も気になる。

呪われた家族の、たった二人の生き残りである、長兄フランクと著者マイケル。フランクはこの家族にその最期まで付き合い、マイケルはそこから逃げ出す事で、成功した音楽ジャーナリストとなった。マイケルが探し当てたフランクは、傍目には成功したとはいえないし、惨めな環境にいたけれど、その心は美しかった。あんな環境に生まれ育ち、色々な苦しみを受け、家族の面倒を引き受けた後、ひっそりと姿を消していたフランク。なぜにこんな崇高な心をもてたのか。美しい何かを自分の代わりとして愛することで、自分の状況に関係なく力を得る事が出来る。物語の中にそういった場面が出て来るときは、いつも陳腐だと思っていたのだけれど、現実のこの関係はとても美しかった。フランクは孤独ではあるけれど、愛を知る人なのだと思う(しかし、苦難ばかりの人生の中で、一体どこで愛を学ぶ事が出来たのだろう! そして最後に明かされる一つの秘密は皮肉でもある)。

 「俺は思った。『おれたちのうちの一人は―たった一人だけだが―なんとかうまく抜け出せたんだ。成功したんだ。そっとしておいてやらなくちゃならない。幸福なままにしておいてやらなくちゃならない。それがせめてもの俺にできることだ。そのまま行かせてやろう。あいつが家族の絆に縛られていなくちゃならない理由は何もないんだもの』ってな」       (P569より引用)

家族の中を、いつも絶望、暗闇が支配していたわけではない。しかし、彼らのうち誰かが、家族に救いを求め、転換点となり得る時点があったとしても、この家族は彼らに救いを与える事は出来なかった。いつもタイミングがずれていたのだ。そういう意味で、確かにこれはこの家族にかけられた「呪い」だったのかもしれない。

また、「荒廃」という言葉が何度となく出てくるので、何となく荒れた食事風景や汚い生活環境を思い浮かべるのだけれど、ボロボロの家に住んでいた時期もあるとはいえ、最終的に彼らは美しい家に住んでさえいる。両親とて、「家族をやり直す」こと、きちんとした家庭を作る事を全く望まなかったわけではないのだ。しかし、美しい家、美味しい料理などの目に見える形が、家族を救うわけではない。母ベッシーは「美しい家」に狂信的に固執するし、美味しい料理はいつも喧嘩の材料として床に投げ捨てられるためだけにあった。

でも残りの僕らは、最終ページのまだその先まで、人生を生きていかなくてはならない。その人生の中では、死者達の残した波が収まることは、絶えてないのだ。
                                  (P547より引用)
わたしたちの人生は死のその瞬間まで続く。
本書を読んだ事で、私の中にも一つの波が出来たように思う。

*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っています。何か問題がございましたら、ご連絡ください。
*既に文庫化もされているようです(文春文庫より刊行)

「ちょうちょ地雷」/戦場外科医という仕事

 2006-01-18-10:00
ジーノ ストラダ, Gino Strada, 荒瀬 ゆみこ
ちょうちょ地雷―ある戦場外科医の回想
紀伊国屋書店

「ちょうちょ地雷」とは、空からやって来る、おもちゃのように見える地雷のこと。ちょうど、この表紙に描かれたように、空の下では子供たちが歓迎しているのかもしれない(売れる金属製品と間違われる地雷もある)。両脇に二枚の羽根がついた地雷の形状は、うまく飛ぶためのものであり、これでヘリコプターから投げ出されても、垂直には落ちずに、あちこち広い範囲へと舞っていく。この地雷は、繰り返し指でいじくり、羽根を押すと作動するのだという。拾った子供が家に持ち帰り、興味津々の友達に見せ、手から手へと回して遊び、そしてそこで爆発が起こる…。おもちゃ地雷は、こどもの手足を奪うために考案されたという。手足のない、目の見えない子供が増えれば増えるほど、人は打ちのめされ、損害を被り、屈辱感にさいなまれる。

この本の著者、ジーノ・ストラダは、現在に至るまで、戦場外科医として数々の紛争の場に居合わせた人物であり、また地雷や戦争による負傷者の治療とリハビリを行う、非政府人道組織「エマージェンシー」(本部ミラノ)を立ち上げた一人でもある。戦争外科医とは耳慣れない言葉だけれど、それは戦場で医療行為を行う医者のことで、紛争の場で自らや他のスタッフの身を危うくしつつも、そこには英雄的な悲壮感はない。

これは、たんなる仕事、いや、まずやりはじめなければならず、そうして、はじめて仕事になり、職業になっていく。戦場外科医は、消防士や警察官やパン屋のようなものだ。
仕事になり、職業になり、雇用が継続してこそ、尊厳も報酬も得られ、質の高い施術が可能になって、プロフェッショナルといえるのである。
戦場での外科医療は、冒険や即興の範疇には入らない。欲求や感動や寛容では足りない、有益でなければ、ほんとうに役に立たなければ意味はない。

著者は祖国イタリアに妻と娘を残す、父でもある。この本は、時系列、場所もバラバラな、スケッチのような44の短編で綴られている。記憶を頼りに、記憶が蘇るに任せたまま、書かれたこの本には、時に家族に対する責任を果たさないまま、遠く離れた戦場で働いているのが正しいことなのか、自らの身を危険地帯におくのは、単に自己実現のためなのか、その自問自答も書かれている。その仕事、行いはあまり「普通」とはいえないかもしれないけれど、その悩みはごく普通の人間のものである。

「戦場」外科医と言っても、ここに出てくる患者の殆どは兵士ではない。その殆どが子供、または老人である。彼らは泣き叫ぶこともなく、黙って痛みを耐え忍んでいる。

時系列、場所がバラバラなせいで、何だかふわふわとした印象を受けるのだけれど、この本の中に目を背けたくなるような描写も出てこないとはいえない。しかし、著者は「みせられる写真」について、こう語る。あまりにすさまじい映像は、ほんとうに感情を害したり、興奮や衝動的な反応を招きかねず、理解の可能性を損なう恐れもある。だから、ここには見せられない酷い惨い写真は出てこない。せめて、著者がここで表現した文は読まなければ、とも思う(基本的には、抑制された文章です)。

著者らが立ち上げた、エマージェンシーの人道援助は、当初から対人地雷による犠牲者の手当てとリハビリテーションを主眼とした。これはかつて、イタリアがこの爆破装置の主要製造国であったからだという。エマージェンシーはイタリアからこの種の武器を追放するよう働きかけ、1997年、政府は対人地雷の製造及び売買を禁止する法案を承認した。しかし、かつて67カ国にまき散らされた一億一千万個の爆破装置が、今も人々を傷つけているのだという。

章によっては注釈が付けられている。注釈を、以下にあげておく。
クルド紛争、ルワンダの内戦、アフガン難民、アフタニスタン内戦、エルビル陥落(エルビル:イラク領クルド人居住地区の都市)、ハラブジャの悲劇(ハラブジャ:イラク領内スレイマニア州のクルド人村落)、エチオピア内戦、アンゴラ内戦、カンボジア内戦、ジブチ内戦、ボスニア・ヘルチェゴヴィナ内戦、ペルー農民弾圧、ゴルラ空襲(ゴルラ:イタリア、ミラノ北部の住宅地)


*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。

「野中広務 差別と権力」/政治家、野中広務。その背後にあったもの

 2005-12-14-11:18
魚住 昭
野中広務 差別と権力

私がこの本を知った切っ掛けは、ペトロニウス さん経由で時々お邪魔している、「千の天使がバスケットボールする 」の樹衣子さんのブログで、この本が取り上げられていたから。たまたま、図書館でこの本を見つけたので借りてきた。

 ■樹衣子さんの記事はこちら→「野中広務 差別と権力」魚住昭著

樹衣子さんの文章には、緻密な論理性と硬質な美しさとを感じます。私の文章や、読む本は軟派よりだし、コメント出来る知識もなかったりで、今回がほぼ「初めまして」なのですが、記事本体は勿論、ペトロニウスさん達、常連さんとのコメントのやり取りも興味深いです。

さて、本題の本の話に戻ります。

政治家・野中広務は被差別部落の出身者であり、激しい差別の中で権力闘争をくぐり抜けてきた人間であった。私の世代においては、「その事について話すことすら、何だかイケナイ事」として、この問題は封印されているような所があるけれど、野中氏がのし上がる過程においては、やはり激しい差別があった。日本においては、この出自は大きなマイナスイメージや、いわれ無き差別を伴う(そして、私の世代のように、「なかった事」にされているのも、決してそれが無くなった訳ではなく、差別はより隠微なものになっているのかもしれない)。

「君が部落のことを書いたことで、私の家族がどれほど辛い思いをしているのか知っているのか。そうなることが分かっていて、書いたのか」

この本の著者、魚住氏は野中氏にこう罵倒されながらも、政治家・野中広務の真実に迫るために、敢えてこの本を著したのだという。

ここに記されているのは、差別と、差別の「再生産」に繋がりかねない行為を同じように憎みながら(「差別」を逆手にとって、安易に阿る事を良しとしない)、上へ上へとその政治的手腕でのし上がっていく姿。他の政治家が恐れて手を出せない、部落解放同盟の要求について、彼のみが筋を通せた事情もある。

ただし、野中氏はその時々の政治状況に素早く反応し、周囲が求めるパイプ役、裏の掃除役を完璧にこなすことはしたが、それはあくまで「調停役」としてであった。突出したバランス感覚は認められるものの、一貫した政治思想やイデオロギー、何かを創り出す姿勢は見られない。例えば沖縄の問題をとってみても、彼が目指したのはあくまでも沖縄の痛みをやわらげることであって、痛みそのものを除去することではない(それは普天間飛行場の名護沖移設問題などに表れている)。

氏の弱点は、国家戦略を持たず、与えられた役割に忠実すぎること。

野中氏は小渕政権の官房長官時代に、ガイドライン関連法や盗聴法、国旗・国家法、改正住民基本台帳方など国民の基本的人権を制限し、日本を右旋回させる法律を次々と成立させた。しかし、実は彼が力を入れていたのは、国旗・国家法と男女共同参画社会基本法のみであり、「ガイドラインと住基ネットはもっと慎重にすべきだった」と後に反省の弁を述べている。ガイドラインに至っては、自自連立の小沢一郎の要求を呑んだ、という面が大きいという。

「影の総理」と言われた政治家にしては無責任な言葉だと言われても仕方ないだろう。もともと野中は元郵政省幹部が的確に指摘したように「潮目を見る」政治家であって、潮目をつくり出す政治家ではない。利害や思想の異なる集団同士の「調停」では突出した能力を発揮するが、かつての田中角栄のように大きなスケールで国家の将来像を創出する力はない。

端的に言ってただの調停役であり、「潮目を見る」ことが上手いだけで、ここまで政治家としてのし上がる事が出来てしまうものなのか、ということもこの本を読んでの大きな驚きであった(勿論、相当の豪腕であり、清濁併せ持つ老獪さがそこにはあり、また「昭和」という時代背景も大きかったのだろうけれど)。

調停役であり、「影の総理」とまで言われた野中氏に、今はもう権力がないことも、日本の政治の一つの時代が終わったことを示すのだろうか。政治には勿論調停が必要であろうけれど、調停が必要になるのは、何かをなそうとする時であるわけで、政治家とはやはり、きちんとした国家の将来像を結べる人間であるべきだ。

「調停役」としての野中氏に着目するだけならば、その出自にまでも言及する必要があったのだろうか、と疑問に思うけれど、以下の部分に示されるような「差別」への彼の姿勢が、野中氏を語る上では欠かせなかったのだろう。部落解放同盟と野中氏とのやり取りは、氏が極めてまっとうな人間である事を示している。?

だが、半世紀にわたる彼の政治人生でまったく変わらなかった思いもある。差別を乗り越えるには、他人に頼らず自力で道を切り開くしかないという確信と、差別の「再生産」につながりかねない行為への激しい憎悪である。それは、彼と部落解放同盟との関係の変遷をたどっていくと、さらにはっきり浮かび上がってくる。

ここに出てくる法案について、また政治家たちについて、知らないことが多かったので、とてもこの本を噛み砕けたとはいえないのだけれど、昭和という時代を知る上では、面白い本だと思う。

*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。

「最後の瞽女」/過酷な生

 2005-10-05-09:35
桐生清次「最後の瞽女―小林ハルの人生」文芸社

「瞽女」とは、盲目の女旅芸人のこと。案内の「手引き」に連れられ、三味線に合わせて唄をうたいながら、村々をまわり歩く。二十世紀はじめには新潟県に五百人もいたそうだけれど、それから百年たって、養護盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」に二人(廃業)しか残っていないとの事。その中の一人、最後の瞽女といわれる小林ハルさんは、明治三十三年(1900年)新潟県三条市で生まれ、今年一月で丁度満百歳となった(出版された2000年当時)。これは小林さんの生涯を辿った本。

目次
はじめに
第一章 生いたち
第二章 瞽女として旅に出る
第三章 親方をかえる
第四章 革張り三味線
第五章 親方となる
あとがき

生後百日で、白内障にかかって失明し、五歳で瞽女にもらわれ、九歳から親方に連れられて旅に出た。お宮に泊められたり、野宿させられたり、三度のご飯も満足には食べさせてはもらえない。彼女の世界は、障害者が差別と偏見の中で生きた過酷なもの。昭和五十三年(一九七八年)、瞽女唄の伝承者として人間国宝(無形文化財)に選ばれ、五十四年には黄綬褒章も受賞した。

聞き書きだから多少分かり難い部分もある。でも、その過酷な世界に圧倒される。健常者であっても辛い道のりを、小林さんはひたすら歩き、うたう。意地悪をされても、決して人の悪口を言わず、人に与えるばかりの人生(「意地悪」なんて言葉が生ぬるい位、ひどい嫌がらせや暴力も受けている)。
眼が見えないからといって決して甘やかさず、人並み以上の厳しさをもって教育に臨んだ母の愛も素晴らしい。盲目の身でありながら、母の教育のお陰で、小林さんは針仕事から何から何まで、生活の殆ど全てを、一人でこなすことが出来る。

小林さんの生家は比較的裕福だったのだけれど、目が見えない彼女の行く末を心配した祖父が連れて行った先で、占い師にこう言われたそうだ。
この子は親が死んでも長生きするし、そうなれば面倒をみてくれる人がいなくなる
祖父が面倒を見られるうちはいいけれど、代替わりしたら? 彼女の将来を考え、祖父は小林さんを瞽女にすることにする。

一生、他人さまの世話にならねばならない者がなんだ」、「おらの目が見えないのがいっち悪いんだ」という言葉が痛い。結局は人一倍働いて、世話になどなっていなかったのになぁ。晩年は老人ホームで穏やかに過ごされたそうだ。過酷な人生を生き抜いた、つよい人だ。

Wikipediaによる「小林ハル」さんの解説はこちら

桐生 清次
最後の瞽女―小林ハルの人生

「哀しいアフリカ」/アフリカ

 2005-06-13-08:22
ケリー・ジェームズ 「哀しいアフリカ 国際女探偵、呪術の大陸を行く」

「とびきりの冒険と、人間的な体験に関するとびきりの洞察が実現できた」アフリカの地における、国際的私立探偵であるケリー・ジェームズ氏の冒険譚
著者のケリー・ジェームズは、国際的な私立探偵。五大陸にまたがって、多くの国々で過去二十年、調査活動をおこなっている。カナダとの国境から数マイルと離れていない北西部の農場で過ごした少女期、彼女のヒロインである祖母の影響(常に不屈の女性の味方でありつづけた)、ある日池のほとりで読んだ「ナイルの源流を求めて」が、彼女を放浪者、探偵、冒険者へと駆り立てた。

本書には三つの話が収められている。どれも読み応え、あります。とても実話とは思えない(実際は全て本当にあったこと)。「ひとつひとつが独立した物語で、どれもアフリカへのわたしの恋心が一番燃え上がっていた1980年代に起きたこと」



「まわり道」ケニア/ナイロビ
遺産相続のための、死者の個人的資産の調査依頼を受けたケリー。依頼主はドイツ人フランク・ワグナー・ジュニア。亡くなったのはナイロビでコーヒー園を経営していたフリーダ・ワグナー。個人的資産を探る内に、その死の真相に迫ることになる。

「ゴリラとバナナビール」ルワンダ
マウンテンゴリラをみるために、なんとかルワンダに潜り込んだケリー(ルワンダ政府には歓迎されていない。二回とも送り返され、なんと、三度目の挑戦)。今回の冒険は父親から押し付けられた「ジョニー坊や」と一緒。無事にマウンテンゴリラを見た所まではよかったのだが、現れた密猟者のおかげで窮地にたたされる。

「呪術医」ケニア北部/トゥルカナ地方
消息を絶った「ドクター・カーリー」を探す依頼を受けたケリー。この三つの中で、最もタフな物語。本を書いているのだから、絶対に生き残っているはずと思うのに、本当に助かるのかびくびくしながら読んだ。「人類発祥の地」トゥルカナ地方での出来事。文明国的な理屈や、合理的な方針で物事を解決しない所がすごいなぁと思った。混沌としたアフリカの人達を尊重している。

以下引用
丘の上から低く長い吠え声が聞こえる。わたしたちの家の裏手にある大きなオークの木の丘-インディアン・ヒル。わたしはまずコヨーテの遠吠えに耳をすまし、コヨーテの気持ちを理解する。次に、自分で吠える。祖母は、それはもう見事に吠える。祖母よりうまくは吠えられない。ジェス叔父さんが亡くなったときにも祖母は吠えた。年が明ければ吠え、自分の誕生日にも毎年吠える。ルー叔母さんが亡くなったときには三日間吠え続けた。それは一番大きく、一番長い遠吠えだった。


後日談のようなものが、太字のゴシック体でそれぞれの編の最後に書いてある。これがまたいい。「ゴリラとバナナビール」の後日談にはホロリとするし、「呪術医」では、読んでいる最中腹が立って仕方が無かった、ロレインを好きになっていた。骨太のタフな物語。面白かったです。でも、これが現実に起こったことだなんて、やっぱり驚く。
タフな女性探偵ケリーの続編を待ちたい。

著者: ケリー ジェームズ, Kelly James, 田口 俊樹
タイトル: 哀しいアフリカ―国際女探偵、呪術の大陸を行く

*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら御連絡下さい。
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プロフィール

つな がる

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つなです。
「日常」logとも称していますが、そう多くはない手持ちの本、興味が赴くままに借りてきた図書館本の感想が主になります。
興味を持った記事があったり、あなたが読み終えた本について語っていたら、是非あなたの感想を教えて下さい。お待ちしています。

2008年3月23日に、fc2ブログに引っ越してきました。それ以前のamebaブログでの更新も、引っ越しツールによって移行しています(以前の記事は、表示が少々見辛いかもしれません。ご容赦を)。

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