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「何も持たず存在するということ」/角田さんエッセイ集

 2009-08-11-09:52
何も持たず存在するということ何も持たず存在するということ
(2008/06)
角田 光代

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「人生ベストテン」(感想)「空中庭園」(感想)の虚無っぷりにビビりつつも、「対岸の彼女」(感想)がとても好きな角田さん。あ、「八日目の蝉」(感想)も良かったなー。

ぼちぼちエッセイにも手を出してるんですが、今度は「恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。」(感想)の解説で気になったこちらを。

角田さんの選ぶ言葉は、決して煌びやかなものではなくて、むしろ平凡な言葉なんだけど、すっごくグッとくるんだよねえ。「対岸の彼女」の直木賞受賞関連から二箇所引用します。

かなしいときに黒い服で駆けつけてくれた人々が、うれしいときに色とりどりの服で駆けつけてくれている。こないだいっしょに泣いてくれた人々が、今日はいっしょに笑ってくれている。なんかすごい。すごいことである。ありがたいという気持ちをはるかに超えてうれしかった。
 「黒と色彩―『対岸の彼女』直木賞受賞のことば」より引用

受賞のちょうど一ヵ月半前にお母さまを亡くされた角田さん。父もなく身内のほとんどもまた亡くなっていたので、喪主をつとめたのは角田さんだったのだとか。

わかることはただひとつ、喜びはかなしみを消去はしないし、かなしみが喜びをおびやかすことはない、ということだ。うれしくてかなしい、相反するそれらは混じり合わずにぽっかりと私の内にある。
 「たぶん、書くことでわかる―直木賞受賞のことば」より引用


はじめて恋愛を題材に小説を書いたという、「あしたはうんと遠くへいこう」、豊かさと便利さを享受するものの、生み出すこと、作り出すことを知らない、信じきることのできない夫婦を描いたという、「庭の桜、隣の犬」も読みたいな。ここの部分も身につまされるのです。同じように考える同世代、多いんじゃないかなぁ。

生み出す、作る、ということに対する圧倒的な疑惧が、私にはある。何かを生み出すことはできる。作り上げることはできる。けれど果たしてその中身は?真の意味は?と、もはや学生でもないのに、未だに立ち止まり、傲慢にも考えてしまう。
 「彼らの結婚の内訳」より引用


ところで、お酒を飲む人は、ご飯とおみそ汁とおかずを全部並べたりはせず、長々と食事をする。三十分もかからず食事を終えるのは、ひどく損した気分になる、という「父とアカエボシの食卓」におけるお話。私はお酒は飲むけど、普段の食事は全体量を分からずに食べるのは辛いので、まさに全部並べて三十分で御馳走さま!、になっちゃうんですが、だらだら食べてると食べ過ぎはしませんかね?

↓文庫より単行本の方がデザインが好きだなぁ。
あしたはうんと遠くへいこうあしたはうんと遠くへいこう
(2001/09)
角田 光代

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庭の桜、隣の犬庭の桜、隣の犬
(2004/09/29)
角田 光代

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「恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。」/角田さん、エッセイ集

 2009-07-12-12:57
恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。 (角川文庫)恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。 (角川文庫)
(2009/02/25)
角田 光代

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もうねー、角田さんのことはお姉さんのように思えてしまいますよ。そして、いきなり解説の話をするのも反則か?、と思いつつも、この本の解説は書評家の藤田香織さん(右にリンクも貼ってますが、「だらしな」シリーズ(?)の藤田さんです)。私にとって二度美味しい本でした。

本当にゆるゆるした、気の置けない友だちとの酒飲み話(もしくは茶飲み話)のような話が続くのだけれど、「解説」で藤田さんによって明かされる角田さんのその頃の生活は、”ゆるゆる”なんてのとは、まったく対極にあったのです。あの「対岸の彼女」の直木賞受賞により、激動の日々に放り込まれ、プライベートでは、お母さまの病気、死に立ち会い…。そうした背景があってのこのゆるゆるとした語り。ますます、じーんとしてしまうのでした。藤田さんの解説が、完全ファン目線な気がしますが(笑)、でもステキです。「何も持たず存在するということ」も、是非読みたいです。こちらには、本書と同じ時期に新聞や雑誌に寄せた文章が多数収められているとのこと。

いい年なんだけど、私なんて会社を離れてしまえば、大人コドモみたいなもんで…。ちょうどそういう頃の角田さんが書かれた文章だから、余計ぐっときちゃうのかなぁ。「社交辞令は得意ですか?」の章が良かったー。”社交辞令というのは、気持ちを流しこめる「型」みたいなもの。「型があるから伝わることもあるのではないか。親しい人、好きだと思える人たちのあいだにこそ社交辞令は存在すべきだ。”(一部抜粋、意訳)。”なんにも言わなくても気持ちは通じるはずだと昔の私は信じていたけれど、そんなこと、絶対あり得ない。”

笑っちゃったのは、「おばさんに思うことありますか?」の章。どこか他の場所で出会ったら、大好きになったかもしれないおばさん。でも、確かにおばさんの美徳が美徳にならない場所ってあるよねえ(ここで例に出ているのは、忙しい買い物客としての角田さんと、彼女の近所のスーパーのレジ打ちのおばさん、お昼に入ったお店で出会ったおばさん)。む!と思っても、こう思えれば、うまくやり過ごせるかな?
何も持たず存在するということ何も持たず存在するということ
(2008/06)
角田 光代

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「恋するように旅をして」/世界は広いということを

 2008-12-14-23:02
恋するように旅をして (講談社文庫)恋するように旅をして (講談社文庫)
(2005/04)
角田 光代

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目次
「あんた、こんなとこで何してるの?」
夢のようなリゾート
トーマスさん
旅における言葉と恋愛の相互関係について
旅のシュールな出会い系
ナマグサ
超有名人と安宿
旅トモ
行動数値の定量
ツーリスト・インフォメーションの部屋にて
ベトナムのコーヒー屋
宴のあと、午前三時
ラオスの祭
ミャンマーの美しい雨
Where are we going?
ポケットに牡蠣の殻―アイルランド、コークにて
空という巨大な目玉―モロッコにて
幾人もの手が私をいくべき場所へと運ぶ
 あとがき
 文庫版あとがき
 解説 いしいしんじ
小説は読んではいるのだけれど、エッセイはまだ読んだことがなかった角田さん。旅エッセイにも定評があるようだし、「古本道場」(感想)の中にもちらりとそんな話が出てきたので、角田さんの旅エッセイをずっと読んでみたかったのです。というわけで、ようやく読めたよ角田さんのエッセイ本! 面白かったよー。

あちらこちらに、ふらふらと旅をしている角田さんなんだけど、勿論ある程度の英語などは出来るんだろうけれど、読んでいてもこれが決して旅の達人!、とかそういう感じじゃないんだよねえ。

きっとどこに行くとか何をするとか、そういうことが重要なわけではなく、日常とは違う場所に身を置いた時の、自分の感情の揺れ、揺らぎを試すために旅をしているのではないのかなぁ。自分でこれだけ方向音痴だと自覚していて(そして、それを補強するエピソードだって盛りだくさん)、なのにガイドブックも持たず、調べもせずに良く分からない街をずんずん歩いて行くその姿は頼もしくさえあるんですが。

こどもだ。この町にいる私たちはこども的なのだ。約束もなく、束縛もなく、夕方がきて家に帰ってしまうまでの、どこかでだれかに許されていた、あの短い瞬間みたいなのだ。だからこそ、見知らぬ国の見知らぬ町角で出会った私たちは、恋愛も友情も入りこむ余地がないほど、刹那的に楽しい。(「旅トモ」より引用)

大人になって、多少に困ることがあっても、何となくやり過ごすことを覚えている私たち。何も知らないこどもに戻って、その心細さを、次に何が来るのか予測出来ない、そんな瞬間を楽しむような旅。私にはそんな根性はないけれど、角田さんはそうやって感性を研ぎ澄ませているのかしら、と思いました。

ほとんどがアジア、ほんの少しがヨーロッパの旅。スリランカでは、ほとんど奇跡的ともいえる、自らが使用していた幼稚園バスとの出会いを果たす。この「Where are we going?」が良かったなぁ。

バスがどこへいくのか私は知らない。けれど私はかつてのように絶望しない。不安にすっぽりと覆われて小さく震えることをしない。なぜなら私はすでに知っているのだ。私たちはどこかへいき続けなければならないことを。暴力バスに揺られボートにしがみつき小型飛行機でうなだれながら。快適な乗りものも、そうでないものも、そのほとんどを自ら選べずに、けれどだれかに乗せられるのではなく自分の足で乗りこんで、どこかへ向かわなくてはいけないのだ。それがどこかわからないまま。いきたいところなんかどこにもなくても。(「Where are we going?」より引用)

以前に読んだ「対岸の彼女」(感想)を思い出しました。大人であることとこどもであること。角田さんはきっといいバランスの大人なんだろうなぁ。

「八日目の蝉」/暗い場所から出た先には

 2008-09-04-23:04
八日目の蝉八日目の蝉
(2007/03)
角田 光代

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やっぱり、角田さん好きだーーーー!!

暗く救いのないような話を書いていても、絶対、それだけじゃあないんだよね。それでもなお、人の心の力、人の強靭さを信じているというか…。

不倫相手の子を中絶し、その代わりのように、彼の家庭から生後間もない赤ん坊を連れ去り、逃げ続けた女。それが、0章と1章の語り手である、野々宮希和子。「どうか、この子と一日でも長くいられますように」。薫と名付けたその子との生活を望む、希和子のその願いは随分と身勝手なようにも思えるのだが…。勿論、普通に逃げ続けたのであれば、希和子はとっくに捕まっていた。昔の友人のもと、地上げに抵抗していた女性のもと、怪しげな宗教団体のようなエンジェルホーム、エンジェルホームで知り合った久美の実家がある小豆島。転々と居を移すことで、彼女の約四年にわたる逃亡は可能になった。エンジェルホームでは、エンゼルさんという中年女性に新しい名を貰い、人々は財産を含む現世での様々な執着を手放し、考えることを放棄する…。

2章からは、その子、”薫”が語り手となる。彼女もまた、最初は知らなかったこととはいえ、妻子ある男性との恋に苦しんでいた。そんな彼女の前に現れたのは、エンジェルホームで”薫”と一緒だったという、マロンこと千草。

彼女たち二人は、自分たちの意志ではなく特殊な育ち方をしてしまった。地中から出て、七日目に死んでしまうという蝉。生き残って、他の仲間たちが見ることがかなわなかったものを見られるのが、八日目の蝉。それは不幸なのか、幸福なのか。

”薫”が希和子から引き離され、取り戻されたその家庭は、決して明るく暖かい家庭ではなかった。逃げ続ける父、子供のような母。それでも、その家庭は彼女の家庭であり、母は彼女の母であった。四年間、なにくれとなく”薫”の面倒をみ、慈しみ育てた希和子と何ら変わることなく…。”薫”は一番の被害者であるのだろうけれど、弱い母、父もそれぞれに当事者であったのだ。普通では見られなかった景色をたくさん見てしまった彼ら。それでも、出来ることは憎むことだけではないはずなのだ。

小豆島の風景が美しいです。海と空と雲と光と。

「古本道場」/当世古本事情

 2008-01-14-22:39
古本道場古本道場
(2005/04)
角田 光代岡崎 武志

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作家の角田さんを弟子とし、岡崎さん(私は知らなかったのだけれど、書評を中心に活躍するフリーライターだそう。これ読んだあと、図書館で著書を見かけました!)を師とする古本道場。毎回、師から指令が出され、弟子・角田さんはその指示に沿って行動する。そこは作家、角田さんであるからして、師に対する報告も、やはりまた読ませるのです。角田さんの旅エッセイも読んでみたいなぁ、と思ったことでした。実際、この本を書いている最中にも各地を旅されていたようで、さらりと書かれているそれにも興味を持っちゃったのです。

目次
古本道場 其の一 入門心得
神保町
古本道場 其の二 なつかしい、あの本と再会
代官山・渋谷
古本道場 其の三 代官山で知る古本屋の未来形
東京駅・銀座
古本道場 其の四 夜のパラダイスよ、花の東京
早稲田
古本道場 其の五 早稲田古本街で青春プレイバック
青山・田園調布
古本道場 其の六 ついに二階級特進!
西荻窪
古本道場 其の七 西荻村を満喫
鎌倉
古本道場 其の八 土地柄と値段を学ぶ
ふたたび神保町
 古書店一覧
 あとがき


私が普段行く古本屋は、所謂チェーン展開しているようなお店で、ここで出てくるような古本屋ではないのだけれど、絵ハガキがあったり、蔵書票があったり、昔の映画のパンフレットがあったり、紙という文化そのものを愛するような、こういう古本屋さんも良いなぁ、と思いました。

児童書・絵本が専門の古本屋さんなんてものがあるのだとは知らなかったし〔神保町・呂古書房〕、同じく東京駅の八重洲の地下街に古本屋があることも知らなかった〔八重洲古書館〕。古本屋街がくっ付いている、早稲田の町での学生生活は羨ましかったなぁ。

これ、この本自体もとても美しい作りで、表紙は角田さんご自身の本棚だそうです。味のある本棚ですよね。ポプラ社って、昔は児童書でお世話になったものですけれど、最近ずいぶん頑張ってますよねえ。

でも、これ、第二刷なのに、実は誤植を発見してしまいました! 誤植を見つけると、なんかドキドキしちゃうのは私だけ???
(p175 ×抱負→○豊富 だと思う)

さて、角田さん、さんざんご自身が育ったところは田舎で、一軒あった本屋も、田舎にありがちな品揃え(週刊誌と文房具と漫画雑誌を売っている)だったと書かれているんだけれど、横浜市出身と書いてあるのですよね。うーん、横浜でもそんな? つか、横浜の山側に育ったとか、海と言えば鎌倉とか、大船観音を見て「大船を通過するとき見える大船観音は、これくらい大きいんだよな、という大きさをいつも上まわって大きい。」とか、何だか私の育ったところと近いように思うのだけれど、うーん、横浜のどの辺なのかしらん。

なんて、個人的興味は良いとして、角田さんが買われた本は、趣味が良すぎて、私には分らない物もたくさん…。そういう意味で、作りはポップで美しい感じになってるし、柔らかい語り口だけれど、なかなかに侮れない物があります。私にとっては、釣り好きの気のいいおじさんである、開高健さんのベトナム戦争でのエピソードも知らなかったし(開高健はアメリカ軍の最前線に加わってルポを書いていた時に、戦闘に巻き込まれる。この戦闘で助かったのは、二百人中たった十七名)。

人によっては、単なる汚い本になってしまうかもしれない古本。でも、どこかの誰かの血や肉となり、愛された本がまた新たな読者を得ていくとすれば、こんなに素敵なことはないよねえ。

<関連過去記事>
・「対岸の彼女 」/大人になるのは何のため?
・「空中庭園 」/砂上の楼閣
・「人生ベストテン 」/浮遊するこころ

ニシオギと言えば、古川さんのこちら!
ここでは、「サブカルチャーの整った田舎」と書かれているのだけれど、やっぱり何だか独特な街なようで、行ったこともないのに、私の中での西荻窪イメージがどんどん固まって行きます。笑
・「サウンドトラック 」/青春を駆け抜けろ

「人生ベストテン」/浮遊するこころ

 2006-04-11-21:55
忙しく生きる事は結構簡単だけれど、豊かに生きる事は難しい。
年を重ねる事も簡単だけれど、「ちゃんとした」大人になることはとても難しい。

これは、そんなことをふと考えてしまう短編集。

角田 光代
人生ベストテン


目次
床下の日常
観光旅行
飛行機と水族館
テラスでお茶を
人生ベストテン
貸し出しデート

何となくそれなりに忙しく生きてきても、どこかで欠落感を持っていたり、何も持っていない事、何も積み上げてこなかった事にはたと気付く、六人の人生が描かれる。

対岸の彼女 」のラストの明るさはここにはなく、それぞれの短編は、ラストまできても爽快感は少ない。暗いラストではないけれど、それまでの流れに相応しく、人生の華々しい逆転ウルトラCは勿論ない。本当に微かな微かな希望しか、そこには見えない。

ワタクシ、これ読んでたら、少々落ち込んでしまいましたよ。大人になるということは、学生時代ににおける区切りも既にないわけで、新たな事を自ら始めなければ、特に代わり映えもない生活が続いてしまう。怠慢な大人には実にイタイ話。

角田さんの本は、一見、凡人の日常をつらつら書いているようであるので、上辺だけ読むと何のこっちゃ、であると思うけれど、こういう回路を持って読むと、毒があったり痛かったりする小説だよなぁ、と思う。そんなわけで、全く健全な人が読んだとしたら、きっと、何のこっちゃと感じる小説なんだろうな、とも思う。

「床下の日常」
クロス屋見習いの「ぼく」の話。ぼくとななちゃんは恋人同士だけれど、生活時間帯がことごとく合わず、どちらかがどちらかの家に泊まりに行く、まるで長い旅行のような日々が続いている。ぼくが水漏れの修理に行った、マンションの一室に住む女性と交わしたお話。

ぼくらの暮らしの下で、ひそやかにゆるやかに、あるものは一部分腐りはじめ、あるものは連結部でひび割れし、あるものはヘドロを詰まらせていく。その隙間、過去の記憶のように廃材が埋めこまれていたりする。

「観光旅行」
ハシヅメ君との惰性で続いた恋に決着をつけることを避け、イタリアに飛び出した「私」が、旅先で出会ったヨシザキ母子のお話。

「あなたたちずっと喧嘩してて、馬鹿みたいに意地悪しあって、でもそれって、離れることがないからでしょう。万が一遠く離れたって、関係が消えることがないからでしょう。そういうの見てると、なんだかわかんなくなるんです。私たちが喧嘩もせずに別れていくのは、相手のことを理解できてしまうからなのか、それとも関係というものがもうすでに存在しないからなのか」

「飛行機と水族館」
飛行機の中で隣り合った、ひたすら泣き続ける「泣き女」との話。

「テラスでお茶を」
付き合っている男の、元妻に対抗するかのように、中古マンションを探す「私」の話。

「人生ベストテン」
四十歳を目前にして、中学校の同窓会に行く事を決めた「私」の話。人生ベストテンとは、寝付けない夜にベッドの中で彼女が執り行う儀式。主だった出来事は、全て十八歳までに集約されている。

ほんものの私、というものがいるとするなら、それはまぎれもなく十三歳の夏の、あの覇気と勇気と行動力にあふれた女の子であり、その私をもっともよくわかってくれたのは髪のはねた岸田有作であり、四十歳を迎えた私のなかにも未だ十三歳の女の子は存在して、彼女は覇気と勇気と行動力に欠けた四十歳のぬいぐるみを懸命に動かして、岸田有作のような―彼の前でなら若さを失いつつある裸体をそのままさらけ出せるような、そんな男の子を未だ捜し続けている。

「貸し出しデート」
見知らぬ若い男を、一時間いくらで借り出した「私」の話。ところが、待ち合わせの場所に現れたのは、だらしのない只のデブ。彼の目には、昔の美少年だった頃の自分が見えているようであるが・・・。

これからどうなっちゃうの?、と思うけれど、この中では「貸し出しデート」が一番好き。でも、ちょっとぐったり疲れてしまったので、角田さんの本はしばらくお休みしようかと思います・・・。はー、ぐったり。

*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。

「空中庭園」/砂上の楼閣

 2006-03-03-22:58
角田 光代
空中庭園

京橋家のモットーは秘密を作らないこと。全ては「ダンチ」のリビングの、蛍光灯のもとに晒される定め。姉のマナの初潮だって勿論そう(初潮晩餐会が催される!)、弟、コウの性の目覚めもそう。

わざわざ「秘密を作らないこと」をモットーに掲げるだけに、実は京橋家には沢山の秘密が存在する。一番の秘密は、このモットーを作った母、絵里子がひた隠しにしていること。絵里子は、夫、タカシには避妊の失敗により結婚したと思わせ、またマナたち子供には、ヤンキーだったから早くに結婚したのだ、と説明していたが、実はそれは両方とも真っ赤な嘘。自らの家庭に絶望していた絵里子は、早く自分の家庭を作り、育った家庭を捨てるために、虎視眈々とその機会を狙っていたのだ。彼女のバイト先に現れた、平凡な大学生タカシは、絶好のカモだったというわけ。 これはそんな京橋家を巡る人々が語る物語。

目次
ラブリー・ホーム
チョロQ
空中庭園
キルト
鍵つきドア
光の、闇の

ラブリー・ホームは娘のマナが、チョロQは父タカシが、空中庭園は母絵里子が、キルトは絵里子の母が、鍵つきドアはタカシの浮気相手ミーナが、光の、闇のは息子コウがそれぞれ語っている。

母、絵里子には「こうあるべき」という家庭の理想の姿があった。子供たちを真っ暗な家に帰らせたくはないし、ベランダに設けた庭園には、いつも花が咲いているべき。ところが、毎年花を咲かせるはずの植物すら、この「空中庭園」には根付かない。必死に明るい花を咲かせる絵里子であるが、その背中は他の家族から見ると、鬼気迫るもの。

絵里子は自分の生涯のある部分までを、なかったことにしたいと思って生きている。母にされた事の逆をすれば、良い子育てが出来ると信じている。絵里子の歴史の曖昧さを意識するからか、娘のマナも「自分が仕込まれた場所」を聞くし(それはなんと近所のラブホテル「野猿」!)、夫タカシもいつまでもフラフラしたまま実家の仕送りを受け続け、息子コウは同じ間取りでも全く違う顔を見せる家庭や建築に異常なまでの興味を示す。ここに出てくる大人は、タカシの浮気相手ミーナを含め、人生のある時点での過ちを、なかったことにしたいと思って生きている。しかしそれは正しいことなのか?

キルトで語られる絵里子の母の話を読めば、絵里子が信じ込んでいたほど、彼女の育った家庭が酷くはないことが分かる。絵里子の母は不器用だっただけ。懸命に生きていたが、それが娘の絵里子には全く伝わっていなかった。 ラスト、絵里子の母が倒れ、母の言葉から、また絵里子の兄の言葉から、これまで絵里子が信じていた母の像が毀れる。絵里子は、京橋家はここから、空中の、砂上の楼閣ではなく、しっかりと地に付いた家庭を作ることが出来るのだろうか。ここで、読者もまた空中に放り出される。絵里子の母の苦労、気持ちが、絵里子に伝わるといいな、と思う。

さて、色々な登場人物がいるこの物語だけれど、私が一番共感を持って読んだのは、弟コウの語る部分。確かに全く同じ間取りを持つ家においても、その家庭を反映してか、そこから受けるイメージは全く異なるものであることは多い。闇が尊い場所では闇の神社が、光が尊い場所では光の教会が存在する。そう考えると、闇と光は等価なのか? コウの感性には共感する部分が多かった。

「対岸の彼女」/大人になるのは何のため?

 2006-01-20-11:56

角田 光代

対岸の彼女

私たちは何のために年を重ねたのか。何のために大人になったのか。

大人になったら、子供の頃の悩みは全て払拭され、新しい自分、新しい周囲に恵まれるのだろうか。決してそうではない事を、大人は知っている。子供の頃悩まされたような人は、ある程度の集団になればどこにでもいるものだし、集団であればそこには派閥も勿論存在する。この本の小夜子のように、内気な自分に悩んだ子供時代を、自分の子供に重ねてしまったりもする。

どこの集団にも馴染むことが出来ず、娘のあかりにもなかなか「お友だち」が出来ない小夜子は、公園ジプシーとなって日々を過ごしていた。この閉塞した状況を抜け出すため、彼女は外の世界に職を求める。自分が外で働き、あかりを保育園に預ける事が出来れば、あかりにも友だちが出来るのではないか?
尖った声であかりを叱り付ける事もなくなるのではないか?

私たちは何のために大人になったのか。

物語は二つの時間軸で進む。その一つは、小夜子と、彼女が勤めることになった、「プラチナ・プラネット」の女社長・葵の上を流れる時間。もう一つは、葵の高校時代、葵と魚子(ナナコ)の上を流れる時間。

理解のない夫、姑に囲まれた小夜子、横浜の中学校でいじめに遭い、群馬の田舎町の女子高生となった葵。両者に共通するのは、どこにも行くことが出来ないという閉塞感。それでも、小夜子は大人であり、高校時代の葵は当然子供である。

私たちは何のために大人になったのか。

専業主婦となり家に入る前は、映画配給会社で所謂「クリエイティブ系」の仕事をしていた、小夜子の今度の仕事は肉体労働の清掃業。いじめに遭ったせいで、どことなく警戒心が抜けない葵の心にするりと入り込んできたのは、天真爛漫に見えるナナコ。さあ、二人は外へと脱出することが出来るのか。

既に、第134回の直木賞が発表されているというのに、今更第132回の受賞作の話をしていて何ですが、日常の細やかな、濃やかな話が好きな方に、是非読んで貰いたいと思うので、いつもはネタバレ満載の当ブログですが、今回はここで起こった事を全て書いてしまう気にはなれない(でも、皆さん既に読んでらっしゃる??汗)。

色々あって、葵の会社「プラチナ・プラネット」は空中分解し、葵とナナコは周囲の大人に引き離される。

何を言われても、こんな所に自分の大事なものはないのだから。嫌なら関わらなければいいのだから、という高校時代のナナコの言葉も真実だろう。子供時代の防御壁としては特に。けれども、騙されても信じる事を選び取ることもまた真実であり、迷惑を掛けてはいけない、文句を言われないようにと、一人で背負い込む事をせずに、人と関わっていく生き方もある。私たちが年を重ねるのは、人と関わり合う事が煩わしくなった時、都合よく生活に逃げこむためではないはずなのだ。

大人になるという事は、年を重ね、それぞれ違う場所に立つという事でもある。
でも、違う環境、立場にいる人だって、全く別のルートから同じように苦労しながら、同じ一つの丘を登ってきたのかもしれない。違う場所にいても、違うものを見ていても、それは「変わって」しまう事と同義ではない。そして、大人になった私達には、足がある。選んだ場所に行くことの出来る足がある。
*****************************************************
とてもいい本でした。今現在、色々と関わりの少ない状況にある自分にとっては、イタイ本であることもまた真実なのですが…。角田光代さん、「菊葉荘の幽霊たち」から入って、これはあまり好みではなかったので、若干敬遠気味だったのですが、これからは他の本も読んでみたいと思います。
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プロフィール

つな がる

Author:つな がる
つなです。
「日常」logとも称していますが、そう多くはない手持ちの本、興味が赴くままに借りてきた図書館本の感想が主になります。
興味を持った記事があったり、あなたが読み終えた本について語っていたら、是非あなたの感想を教えて下さい。お待ちしています。

2008年3月23日に、fc2ブログに引っ越してきました。それ以前のamebaブログでの更新も、引っ越しツールによって移行しています(以前の記事は、表示が少々見辛いかもしれません。ご容赦を)。

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