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「それは私です」/柴田さんの妄想ワールド

 2009-08-06-21:09
それは私ですそれは私です
(2008/04)
柴田 元幸

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日常から妄想にずれて、もしくは日常から妄想的な一癖ある小説の話に流れて~、ないつもの柴田さん節。

三部構成になっていて、あとがきから引用すると、

この本の第Ⅰ部と第Ⅱ部は、『大航海』に二〇〇〇年~二〇〇八年に書いた文章を集めたものである。第Ⅰ部と第Ⅱ部のあいだに絶対的な区別基準はない。第Ⅰ部の方が比較的(あくまで比較的ですが)律儀に現実とつきあっているが、それでも、ともすれば妄想に流れがちである。
(中略)
第Ⅲ部は、『赤旗』をはじめとするいくつかの媒体に寄稿した文章を集めた。こっちははじめからテーマをいただいている場合が多いということもあって、妄想度もわりあい低い。

まぁ、通常のエッセイの場合、”妄想”なんて言葉はあまり出てこないんだろうけど、柴田さんの場合は、やっぱりこの”妄想”がキーワードになるんだろうねえ。

同じくあとがきから、ちょっと興味深かったのが、次の部分。

妄想は、自分をめぐるものが多い。妄想度の低い文章でも、読み直してみると要するにだいたい自分のことを書いている。お前、自分のことしか頭にないのか、と呆れられそうであるが、どうやら、自分のことしか頭にないみたいです。小説家の人たちと自分とは、ほかにもいっぱい違いはあると思うが、この点が一番違っている気がする。「他人になる」能力が決定的に欠けているのである。翻訳に関しては、「自分を消す」とか偉そうなこといつも言ってるんですけどね……。

”小説家には他人になる能力がある”。なんだか良く分からないながらも、納得してしまう言葉であります。

柴田さんのエッセイを読んでいると、ちょっと前に読んでいたら、↓の本を思い出しました。
古典落語 志ん生集 (ちくま文庫)古典落語 志ん生集 (ちくま文庫)
(1989/09)
古今亭 志ん生

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「古典落語 志ん生集」
←全部覚えてられるかは、とっても不安だけれど、一度読んでおけば何かの折に出てきた際に思い出せそう。
柴田さんのエッセイはなんだか夢落ちの落語みたい。

エッセイの中で気になった本。
夢の絵本―全世界子供大会への招待状夢の絵本―全世界子供大会への招待状
(1991/05)
茂田井 武

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私の絵日記 (学研M文庫)私の絵日記 (学研M文庫)
(2003/01)
藤原 マキ

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柴田さんの場合、時々、嘘っこの本の話を書かれるので若干不安になったんですが、これはちゃんと実在するんですね。
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「火を熾す」/それぞれの闘い

 2009-05-31-23:56
火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)
(2008/10/02)
ジャック・ロンドン

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目次
火を熾す|To Build a Fire
メキシコ人|The Mexican
水の子|The Water Baby
生の掟|The Law of Life
影と閃光|The Shadow and the Flash
戦争|War
一枚のステーキ|A Piece of Steak
世界が若かったとき|When the Worlld Was Young
生への執着|Love of Life
 訳者あとがき

柴田元幸翻訳叢書”でございます。そうじゃなかったら、きっと読まなかっただろうな~。

実際、最初はそのあまりの救いのなさ(というか、自然の厳しさ?)に辛くなって、途中で読むのをやめちゃったりしてたんだけど、実は割とバラエティーに富んだセレクトだったので、読み進めている内に、だんだんとのめり込んでいきました。最初に、あ、こういうお話なのね、と見切った気になったんだけど、そこで読むのをやめてしまったら、勿体ない事をするところでした。

「火を熾す」では人間側が自然に敗れ去るけれど、全てがそういう話ではないのです。極寒の地が描かれたかと思えば、革命に燃えるメキシコが描かれたり、マウイ島の老漁師が描かれたり。「影と閃光」、「世界が若かったとき」などは奇妙な味わいで、現代英米作家によるもの、と言われても納得してしまう感じ。

ジャック・ロンドンの生涯は、四十一年に満たない短いものだったのだとか。短いけれど、きっと濃密なものだったのでしょう。人は死から逃げることは出来ないけれど、それまでの対峙の仕方には、色々あるんだよね。

本書では、一本一本の質を最優先するとともに、作風の多様性も伝わるよう、ロンドンの短篇小説群のなかから九本を選んで訳した。また、同じテーマを扱っていても、人間が敗北する場合と勝利する場合のなるべく両方が示せるように作品を選んだ。まあ勝利とは言っても、いずれは誰もが自然の力に屈する生にあっては、一時的なものにすぎないのだが……ロンドンの短篇の終わり方は、個人的に非常に面白いと思っていて、時にはほとんど冗談のように、それまでの展開をふっと裏切って、ご都合主義みたいなハッピーエンドが訪れたりする。そうした勝利の「とりあえず」感が、逆に、人生において我々が遂げるさまざまな勝利の「とりあえず」さを暗示しているようでもいて、厳かな悲劇的結末とはまた違うリアリティをたたえている気がする。  (「訳者あとがき」より引用)

老獪さを備えたときには既に若さはなく、若さに輝くような対戦相手を、少しずつその老獪さで削り取っていくものの…、という「一枚のステーキ」は切ない。名誉のためではない、生活のための試合。そして彼には、既に試合前に一枚のステーキを食べることも、タクシーに乗って会場に行くことも出来ない…。若さと強さだけではない、何かを備えたものだけが、成功者となるのでしょうか。彼の対戦相手は、成功者となれるのでしょうか。

どうしようもない現実が描かれても、どこか納得出来てしまうところも、また特徴なのかなぁ。それはもう仕方のないことなのだもの。それでも、一瞬の輝きが切り取られていれば、それでいいんだ、という気になっちゃいました。

「水の子」は自然の中であっても、南の島を舞台としているからか、極寒の地を描いた他のものとは違う味わい。水の輝きの中、老漁師の語りが伸びやかです。理屈を言う、常識を言う側がばからしくなってしまって、老漁師が言うようにすべては夢なのかもしれないなぁ、などと海面の輝きに幻惑されます。

「翻訳文学ブックカフェ」/翻訳者は黒子なのか?

 2009-03-14-22:23
翻訳文学ブックカフェ翻訳文学ブックカフェ
(2004/09)
新元 良一

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珍しくも手持ち。といっても、古屋で偶然見つけたんですが。図書館に押されて、ついつい後回しになっちゃったんだけど、これ、すっごい楽しかったーーー! 最近、自分が読むのも、翻訳モノの比率が増えているしね。

帯から引きます。
翻訳の心
  ×
文学の愉しみ

若島正/柴田元幸/岸本佐知子/鴻巣友季子
    青山南/上岡伸雄/小川高義
中川五郎/越川芳明/土屋政雄/村上春樹
錚々たるメンツでしょ? 元々知っている人も知らない人も、訳したを見て分かる人も、それでも分からない人もいたけれど…。

対談って基的に苦手なんだけど、これは楽しく読めたなぁ。対談というよりもインタビューで、これ、インタビュアーである新元さんがきっと巧いんでしょうねえ。取り上げられたトークのほとんどは、ジュンク堂書店池袋店にて収録されたものなのだとか。

翻訳というとテクニカルな話になるのかなぁ、と思ったんだけど、テクニカルな話で面白い部分もあったけど、みなさん、すごくハートで訳されてる感じがして面白かったです。やっぱり、つるっとした訳がいいわけじゃなくって、原文の癖であるとか、ひっかかりを大切に訳されているのは共通していました。原文に対峙しうる日本語を探すことが大切なんですね。

手がける本の見つけ方も、それぞれ面白かったです。海外ならいざ知らず、日本の書店で見つけて、なんてことも実際にはあるんですねえ。どこまで本当のことかは分かりませんが、青山南さんなんかは、翻訳する作家を、写真で決めるのだとか。

翻訳家は黒子なのか、というと決してそんなことはなくて、今ではこの人が訳しているから読もうとか、自身の言葉で書かれた翻訳家のエッセイも楽しんだり出来るし、更には新訳だって色々出ている。幸せな時代ですよねえ。版権の問題とか色々あるだろうけど、色々な人の訳で読むのも楽しいのかも。

とはいえ、この作家はこの翻訳家じゃなくっちゃ!、というのもあって、小川高義さんの項で言えば、その扉にも書いてあるんですが、「ラヒリは俺の女だ!」発言なども飛び出ています。笑 勿論、冗談ではあるのだけれど、ちょっとドッキリする発言ですよね。でも、作家と翻訳家の名コンビ。素敵ですよね。

全てに色々気になるところはあったけれど、一番びっくりしたのは、土屋政雄さんの項。「日の名残り」の端正な世界が印象深い土屋さんですが、実は文学作品以外にも、コンピュータのマニュアルを訳されることもあるのだとか。意外だなぁ。

同じく土屋さんのところで言うと、その作品の世界を作るため、文体を掴むまでに、小説の推敲作業にかける姿勢に心を打たれました。みなさん、それぞれ色々なやり方があるのだとは思うのですが・・・。

手順としては、ある程度いくまでは、作品の初めから昨日までに訳した部分を全部読み直す。これを必ず毎日やります。原文に対してこれで必要十分な日本語か。違和感があったら、どんな小さな部分でも直す。それを直すことで、ほかにも直す必要のあるところが出てきますから、それもどんどん直す。それを終えて、まだ時間が残っていれば、初めて今日やるべき未訳の部分を訳します。次の日、また同じことを繰り返す。こうやって、もう句読点の位置まで変えるところがない、というところまできっちり決めていきます。

この本、一回読んだだけでは、この情報量をとてもこなせない感じ。いいところは、「これから訳してみたい本」についても、インタビューしてるところなんですよね。その後を考えると、実際に出ているものもあったりとか。ジェフリー・ユージェニデスについて、柴田さんがヘンな作家だ!、って仰ってるところも、何だか嬉しかったなー(既読本:「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」、「ミドル・セックス」)。私もヘンだと思うけど、何だか惹きつけられる作家なんです。とにかく本の、作家の話題がいっぱいで、にんまりしてしまう一冊なのでした。楽しかったー! 本の雑誌社、素敵です。

【追記】
そうそう、これについてメモっとこうと思ってたのに、すっかり忘れていたのでした。

青山南さんの項で、創作科の話が出てたんです。あのアーヴィングやレイモンド・カーヴァー(こっちは読んだことないけど)も、先生をしていたことがあるのだとか。

創作科というのは、最初は文学なんて教わるもんじゃないと、バカにされてきたそうだけれど、今アメリカで活躍している作家はほとんど創作科の出身なんだって。創作科を出ると創作科の先生になる。すると、生活が安定して一年に一冊本が書ける。そして、そこの生徒が…、というように再生産のような広がりがあるのだとか。で、アメリカ中の大学にそういう創作科があるから、層の厚さはすごいものになるわけですね。波及効果でイギリスも同じ状況で、カズオ・イシグロとかイアン・マキューアン(こっちも読んだことないけど)も創作科の出身なんだって。

日本では、こういう取組みはないのかしら。アーヴィングの授業なんて、「昨日こんなものを書いたんで、今日の授業はこれを読む!」と、自分の小説を読み、「どうだ、いいだろう」と言っておしまいだったんだそうな。ま、これは創作科の創成期の話らしいんですが、創作科って面白そうな場所だよなぁ、と思ったのでした。そうやって、生活が安定するのもいいことだしね(って、本をあまり買わずに、図書館でばかり借りている私の言う台詞ではないかもしれませんが)。
目次
Day1
若島正
Day2
柴田元幸
Day3
岸本佐知子
Day4
鴻巣友季子
Day5
青山南
Day6
柴田元幸
Day7
上岡伸雄
Day8
小川高義
Day9
中川五郎
Day10
越川芳明
Day11
土屋政雄
Day12
村上春樹
 あとがき

「死んでいるかしら」/柴田元幸さんエッセイ集

 2008-05-27-23:59
死んでいるかしら死んでいるかしら
(1997/05)
柴田 元幸

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死んでいるかしら?、と聞かれても困っちゃうけれど、自分だけが知らないだけで、もしかして…、と妄想ワールドに入り込む傾向があるとしたら、それは柴田さんと同類とも言えるのかも。

同じく、翻訳家にして名エッセイスト、岸本佐知子さんの本もそうでしたが、エッセイ集一作目である「生半可な学者」(過去感想にリンク)よりも、こちら「死んでいるかしら」の方が、より自由に羽ばたいておられるように見受けられます。こういう妄想系脱力エッセイ、好きだわー。そこはかとない含羞をまぶした妄想って好みなのです。

あとがきにもありますが、これはエッセイ+絵の本。きたむらさとしさんの絵が、すべてのエッセイについていて、これがまたいいのです。

自分の書いたすべての文章にきたむら画伯の絵がつく、という夢のような贅沢が実現できて、本当にものすごく嬉しい。僕の気持ちとしては、この本はきたむらさんとの共著である。   (あとがきより引用)

絵がつくとはいっても、カラーではないし、基本、ワンカットなので、普通は”共著”とは言わないのだろうけれど、そう仰る気持もわかる作りです。表紙もね、犬のすぐ下にある本には”AM I DEAD?”と書いてあるし、この脚は裏面の”柴田くん”のキャラまで繋がってて、彼のTシャツには”entropy”の文字が(エントロピーについては、「エントロピーとの闘い」という項で、エントロピーとの負けいくさについて語っておられます。コリヤー兄弟についても、ここで)。凝ってます。

そうそう、柴田さんといえば、しれっとした書き方でそのまま嘘をつくイメージだったので、この本の中の”コリヤー兄弟”なる人物の話も眉唾だなぁ、と思ってたんですが、Wikipediaによると(リンク)、どうも実話のようですねえ。疑ってゴメン、と思いつつ、便利な世の中だなぁ、と思いました。でも、ほら話の生き難い世の中でもあるのかも?

コリヤー兄弟については、こんな本↓もあるようです。
変人偏屈列伝 (愛蔵版コミックス)変人偏屈列伝 (愛蔵版コミックス)
(2004/03/19)
荒木 飛呂彦鬼窪 浩久

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「生半可な学者」/柴田元幸さんエッセイ集

 2008-05-07-22:27
生半可な学者―エッセイの小径 (白水Uブックス)生半可な学者―エッセイの小径 (白水Uブックス)
(1996/03)
柴田 元幸

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アメリカ文学者にして、名翻訳家、柴田元幸さんのエッセイ集。「テレビコスモス」という雑誌に、88年6月から91年10月まで連載されていたものだそうで、「33歳の僕」なんかが出て来て、ちょっとびっくり。でも、文章自体は古さを感じさせないものだと思うし、楽しく読むことが出来ました。次のエッセイも借りてこなくっちゃ!、というくらいに。本作は講談社エッセイ賞受賞作だそうで、そういえば、岸本佐知子さんの「ねにもつタイプ」も講談社エッセイ賞受賞作。岸本さんの妄想ワールドとはまた違うけれど、こちらの柴田ワールドもどこかずれてて、面白いのです。
目次
狭いわが家は楽しいか
アメリカにおけるお茶漬の味の運命
ハゲ頭の向こう側
礼儀正しさのパイナップル
天は自ら愛する者を助く
すてきな十六歳
……と考えるのは私だけだろうか
愛なき世界
ひじきにクロワッサンにうどんに牛乳
みやげ物の効用
お辛いのがお好き
恋のサツマイモ
お茶と物乞い
寝てしまう
靴下にひそむ危険
私はいかにしてイランとアフガニスタンの国境で一生を終えずにすんだか
シュレッダーの快楽
おいとけさまにもおいでてもらいましょ
の・ようなもの
怒りの上杉謙信
屋根の上のゴリラ
トーストを齧るオーケストラ
袋要りません
御返事遅れて済みません
しずくを止めるには
虹の彼方はどこにある
ロシヤのパン
変温動物の戸惑い
生半可な学者
貧乏について
死の舞踏
味噌ラーメンの無念
飛び道具とは卑怯なり
赤頭巾ちゃん気をつけて
猫も食わないA定食
〆切は駆け足でやって来る
私のフランス語をお許し下さい
個人的七〇年代アメリカ辞典
現代アメリカ小説の傾向と対策
あとがき
読んだ後でも、この目次を見るだけで、もう一回そそられちゃう感じ。ま、なかなかこのタイトルから、実際の話を思い出し難いってのもあるんですが…。

面白かったのが、「おいとけさまにもおいでてもらいましょ」。ここに出てきた別役実氏って、どこかで見たなぁと思っていたら、以前にこれまたけったいなほら吹き話、「鳥づくし」を読んだことがあったのでした。その時は、ちょっと微妙…と思ったんだけど、小説だって良く出来たほら話なわけだし、やっぱり本読みとしてはほら話を楽しめて何ぼだよなぁ。
鳥づくし―真説・動物学大系 続鳥づくし―真説・動物学大系 続
(1985/07)
別役 実

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「トゥルー・ストーリーズ」/小説よりも奇なるポール・オースターの人生とは

 2008-01-05-23:58
トゥルー・ストーリーズトゥルー・ストーリーズ
(2004/02/26)
ポール・オースター柴田 元幸

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ポール・オースターのエッセイ集。amazonによると、「対応する原書が存在しない、貴重なポール・オースター・エッセイ集」であり、「日本で出版される本書のために、オースター自らが目次を組んだという」んだそうな。

そもそも、扉の著者紹介を見るたびに、結構な男前の写真と共にいつも気になっていた、「1947年、ニュージャージー州ニューアーク生まれ。コロンビア大学を卒業後、石油タンカー乗組員、山荘管理人などの職を転々としながら翻訳、詩作に携わる」という、何だか脈絡がなくも思われるポール・オースターの来歴などが、オースター自身の言葉で語られるわけです。

目次
赤いノートブック The Red Notebook
なぜ書くか Why Write?
その日暮らし Hand to Mouth
事故報告 Accident Report
スイングしなけりゃ意味がない It Don't Mean a Thing
折々の文章 Occasional Pieces
 「あれを読むと、以前僕の母親の身に起きたことを思い出すよ……」
 "It remainds me of something that once happened to my mother…”
 サルマン・ラシュディのための祈り
 A Prayer for Salman Rushdie
 ゴサム・ハンドブック
 Gotham Handbook
 ペンシルヴェニア州知事への嘆願
 Appeal to the Governor of Pennsylvania
 訳者から
 Translator's Note
 戦争に代わる最良の代替物
 The Best Substitute for War
 段ボール箱考
 Reflections on a Carboad Box
 覚え書き 二〇〇一年九月十一日、午後四時
 Random Notes:Septembeer 11, 2001-4:00pm
 NYC=USA
 地下鉄
 Underground
訳者あとがき


数々の偶然に彩られ、導かれたオースターの人生は、確かに彼の小説に生きている。柴田さんも書いておられたと思うのだけれど、物語を創る上で通常は偶然を排するところ、これが故にオースターは偶然を入れちゃうんでしょうねえ。ほんと、オースターの人生には、小説よりも奇なることがいっぱい。なかなかに強烈な人物であり、そうはいないと思われる、まるで「ティンブクトゥ 」のウィリーみたいな人物だって存在したしね。

さて、その他に印象に残ったのは、ニューヨークという街に対するオースターの愛。

ゴサム・ハンドブック」は、ソフィ・カルという女性のために書いた、ニューヨーク・シティー暮らしの改善法のお話。それは、「笑顔」、「知らない人と話す」、「物乞いやホームレス」、「一点を育む」という章に分かれ、「物乞いやホームレス」では、心を硬化させないことは人としての務めである、どんなに小さく、無力に思えるしぐさであれ、行動が必要であると説く。「一点を育む」では、すぐ目の前にある目につかない物たちを大事にせよ、歩道、壁、公園のベンチ、それらのどこか一点、都市のなかのある一点を選んで、それを自分のものと考えてみること、そこを清潔に保つこと、美しくすること、自分と言う人間の延長物、自分のアイデンティティの一部と考えてみよ、と勧めている。
(実際、ソフィ・カルはこの指示に従って行動し、のちにその結果を『ダブル・ゲーム』〔一九九九、ロンドン、ヴァイオレット・エディションズ〕で報告したとのこと)

また、十四歳になるオースターの娘が、ハイスクールに通い始め、生れてはじめて一人でブルックリンからマンハッタンへの地下鉄に乗ったその日、彼女が世界貿易センターの下を通過して一時間と経たないうちに、ツインタワーは崩れ落ちたのだという。

一人一人が出来ることには限りがあるし、大都市であっても尚、都市というのは人の有機的な繋がりであり、国もまたその延長上にあるんだなぁ、ということを実感するようなエッセイ集でした。偶然というのも、どれだけ何かに繋がっているか、ということにもよるわけだしね。ちょっと芋づるを連想してしまいました。
「キリキリソテーにうってつけの日」のふくろう男さんの記事にリンク
 →トゥルー・ストーリーズ』ポール・オースター

「ティンブクトゥ」/魂の行方

 2007-10-26-22:58

ポール・オースター, 柴田 元幸

ティンブクトゥ


ミスター・ボーンズには分っていた。ウィリーがもう長くはないことを。
楽しかった彼との日々が、終わってしまうことを…。

えーと、こう聞くと、ウィリーが犬で、ミスター・ボーンズが人間、と思えるのだけれど(いや、過去、こういう本を読んだこともあるしね)、あにはからんや、ここでは、ミスター・ボーンズが犬、ウィリーがその飼い主になるのです。

ウィリーの人生は、客観的に見て、とても成功したものとは言えない。狂気とアル中の詩人であるウィリーは、けれども、ブラウン管から彼に語りかけるサンタクロースから啓示を受け、ウィリアム・グレヴィッチ改めウィリー・G・クリスマスとなり、一年を通してクリスマスの教えを肯定し、何も求めることなく愛を返すことに専念した(もしくは、そう心掛けた)。

その試みは常に成功!というわけにはいかなかったけれど、ウィリーには常に自分が目指すべきものが見えていた。けれども、若さが失われ、浮浪者同様となったウィリーが、いくら博愛精神を示そうとも、世間は冷たいもの。そんなウィリーが、ボディーガード代わりに飼い始めたのが、ミスター・ボーンズだったというわけ。

ウィリーは全てをミスター・ボーンズに話したし、ミスター・ボーンズも犬の身に許される限り、それらを全て理解した。二人で<匂いのシンフォニー>の研究に夢中になったりもした。マシンガンのようなウィリーのトークの合間に語られたのは、「ティンブクトゥ―ティン‐ブク‐トゥ」のこと。それは人が死んだら行く場所であり、砂と熱からなる巨大な王国、永遠の無が広がる地を越えたところにある土地。ミスター・ボーンズには、その旅は困難なものだと思われたけれど、ウィリーはそこにはあっという間に行けるのだ、と請け負う。

けれど、「ティンブクトゥ」とは人が行く場所なのか? だとすれば、ペットである自分は? この世界に別れを告げるときが来れば、その後はそれまでの生で愛した人と共に暮らせるべきではないのか?

最初に恐れていた通り、やはりミスター・ボーンズとウィリーの別れの日がやって来る。ミスター・ボーンズはウィリーからの忠告を元に、ひとり、生きていこうとする。ウィリーほど信用に足る人間はいないけれども、ミスター・ボーンズは、少なくともウィリーと同じくらい信用できる人間を見つけ…。
ここから語られるのは、いやな奴が一人いたからといって、全員が悪い奴だと思うな、という教訓や、信用できる人間でもその人物に力がない場合の悲しさなど。そうして、ミスター・ボーンズを助けるのは、時に夢の姿を借りてやって来るウィリー。

「ミスター・ヴァーティゴ」ほど、読んでいる最中に面白い!、とは思わなかったのだけれど、読み終わった後にじーんと残るものがありました。犬の視点で語られるのだけれど、犬だから、というよりは、純粋な魂のお話として読みました。愛する者との日々の思い出、愛する者を失ってから、別れが来てからをどう過ごすのか。みんながみんな、夢の形を借りて、生者の元にやって来られるわけではないけれど、ウィリーとミスター・ボーンズは、きっとティンブクトゥに行けたよね。

■関連過去記事■
・「最後の物たちの国で 」/全てが失われゆく街で
・「ミスター・ヴァーティゴ 」/空も飛べるはず

「ミスター・ヴァーティゴ」/空も飛べるはず

 2007-10-03-23:37
ミスター・ヴァーティゴミスター・ヴァーティゴ
(2001/12)
ポール オースター

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これはですねー、超楽しい読書でした。

内容はウォルト少年が語る一代記なんだけど、まぁ、これがとんでもない出来事が物凄い勢いで起こっていくのです。このとんでもなさっぷりは、ちょっとお伽話的でもある。「とんでもない出来事」の中には、いい事も悪い事も、嬉しい事も悲しい事も、割り切れる事も割り切れぬ事も含まれる。それでも、転がる石には苔生さぬとでも言いましょうか、悪餓鬼であり、イェフーディ師匠の言葉を借りれば、「獣」だったウォルトは、そこからの生き直しを、常に新鮮な気持ちで全力でぶつかって行く。このウォルトの心意気が実に清々しい。どんな事があっても、強く、イキの良さを失わないウォルトの生き方は、きっと生への賛歌。

ウォルトがイェフーディ師匠に拾われたのは、九歳の時。セントルイスの街で小銭をせびって暮らす、みなしごだったウォルトが見込まれたのは、ウォルトが誰よりも小さくて、汚くて、みじめったらしかったから。人間の形をしたゼロであるウォルト。師匠は自分についてくれば、ウォルトは空を飛べるようになるというのだが…。勿論、すれっからしのウォルトは、最初から師匠のこの言葉を信じたわけではないけれど、師匠と共に汽車に乗ってカンザスの田舎町へと辿り着く。そこで待っていたのは、辛い修行の日々と、初めての友だち、初めての家族のような存在。師匠の言葉通り、空を飛べるようになったウォルトだけれど、今度は彼が安らいだ「家庭」が壊される。兄のような存在だったせむしの黒人少年、イソップ、母のようだったインディアンのマザー・スー。有色人種である彼らは、KKKに殺される。この「空を飛べるようになる」、「ウォルトが人間となる」までが、第Ⅰ部

第Ⅱ部ではいよいよ、空を飛ぶ「ウォルト・ザ・ワンダーボーイ」の公演が始まる。それは、1927年の夏に始まり、舞台は田舎町から最後はニューヨークへ…。ところが、今度はめまいがウォルトを襲う。空を飛べなくなったウォルトを、イェフーディ師匠は見捨てるのか? いやいや、イソップとマザー・スーを失い、今では二人となってしまった彼ら。師匠は彼ら二人の次の生活を提案する。新しい道を目指す彼らの前に現れたのは、悪夢のようなスリム伯父。ウォルトの成功を妬む伯父は、とんでもない行動に出る。ここまでが第Ⅱ部

「楽しかった日々を忘れるなよ」、それが師匠の言葉だったけれど…。十八になったウォルトは、スリム伯父に追いついた。そして、そこでシカゴの裏社会に君臨するビンゴと出会う。これがウォルトの新しいキャリア。腹心としてのぼりつめたウォルトは、シカゴのど真ん中でクラブを経営するまでになるのだけれど…。偶然出会った、懐かしのイェフーディ師匠が愛した女性、ミセス・ウィザースプーンが言う通り、ウォルトが積み重ねているのは、「泥棒ごっこ」のキャリア。泥棒ごっこに未来はない。そうして、ウォルトはまたも絶頂から転がり落ちる。二十六歳になったウォルトは軍隊に入隊する。ここまでが第Ⅲ部

除隊したウォルトは、そこから職と住居を転々とする。そして、人生で二番目に賢明な選択と言える(一番目は、イェフーディ師匠に着いていったこと)結婚をして、その後の二十三年間を幸せに過ごす。ところが妻のモリーは癌におかされ、彼を残して逝ってしまう…。痛手からようやく立ち直り、甥のもとへと旅立つはずだったウォルトが立ち寄ったのは、第Ⅱ部でウォルトとイェフーディ師匠とミセス・ウィザースプーンの三人で暮らした、懐かしのウィチトーの街。そして、そこで出会ったのは、まさにミセス・ウィザースプーンその人!
けれども、ウォルトの前をそうして、みんなが過ぎ去って行く。そして、ウォルトが最後に出会ったのは…。まるで昔の彼を見るような、ユセフという通いの掃除婦の子供。これが第Ⅳ部で、ウォルトの語るなが~い物語もお終いとなる。

こうして、ウォルトの一代記が語られるのだけれど、それはアメリカの歴史とも無縁ではない。KKKや大恐慌など、それらも合わせてこの物語となる。

ポール・オースターって、前に読んだのが「最後の物たちの国で 」だったので、もっと暗いというか、切実な感じの文章を書く人だと思っていたのだけれど、こんな楽しい物語もかけるのですね。ま、こちらも単純に「楽しい」物語ではないのだけれど、最後の物たちの国で」が少し淡い色彩を帯びた物語だとすれば、こちらはぐいぐいと原色で描いたような物語なのです。この勢いを借りるとすれば、次は「ティンブクトゥ」だ!

「佐藤君と柴田君」/ふたりのアメリカ文学者

 2007-07-22-22:23
佐藤 良明, 柴田 元幸
佐藤君と柴田君

1950年生まれ、東京大学教養学部助教授、佐藤良明(トマス・ピンチョンやグレゴリー・ベイトソンの翻訳・紹介で知られるとのこと)、1954年生まれ、東京大学教養学部助教授の柴田元幸(ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザーなどの訳で知られる)のお二方によるエッセイ集。
(肩書きについては、1995年に発行された、この本の扉の著者紹介から引用しています)

文末に「さ」(佐藤氏)「し」(柴田氏)と記された文章が、ほぼ交互に並ぶ。

時に、一般教養の<英語?>の授業の革命について熱く語り、時に、60年代のポップソングについて語る。そして、時に自らの少年時代について、思いを馳せる。

音楽については、特に佐藤氏の方の思い入れが強く、「そんなん知らんー」となることもあるのですが、柴田氏による「
つまみぐい文学食堂 」を読んだ時にも思ったんだけど、ああ、東大の学生はこんな二人の授業を受けられたのか、と思うとやっぱり羨ましい!(そして、今、Wikipedia を見たら、”歌手の小沢健二は柴田ゼミ出身”なのだとか。)

文章としては、私は柴田さんの脱力系の文の方が好みでした。
特に心に残ったのが、柴田氏による「たのしい翻訳」「ボーン・イン・ザ・工業地帯」の二編。

「たのしい翻訳」に、その恐ろしい書き出しが載せられている、T・R・ピアソンの「甘美なる来世に向かって」も気になるなぁ。訳されても読みこなせないような気もするんだけど。
 
 「ひっかかり、抵抗感こそが味である「悪文」的な原文の、そのひっかかりを再現する」ことを重視している柴田さん。「下手にやると、単に下手な訳文にしか見えなくて、結局は弱気になり、「通りのいい」訳文にしてしまうことが多い」そうだけど、このT・R・ピアソンの文は、そういう意味ではかなり癖の強い「悪文」っぽいです。

「ボーン・イン・ザ・工業地帯」では、柴田さんが訳したスチュアート・ダイベックの「シカゴ育ち」の話と、柴田さん自身の「育ち」の話が絡む。東京のサウス・サイドである京浜工業地帯と、シカゴの南側であるサウス・サイドに、柴田さんはいくつかの共通点を感じるのだそう。

「なつかしい」と「うつくしい」が一致しがたいサウス・サイドを描くなかでダイベックはそこに、ふっと天使の影をよぎらせたり、不思議な言葉で呟かれる老婆たちの祈りを響かせたりして、つかのまの「うつくしいなつかしさ」を、あたかもささやかな救済のように忍び込ませた。

工業地帯の下町に育った柴田さんは、それによって自らが育った町も、一緒に救済された気持ちになったのだとか。そして、この部分にはなんだかしんみりしてしまう。

手拭いを頭に巻いたおじさんたちが黙々と旋盤を回している町工場の並ぶ、夕暮れの街並みを自転車で走るとき、僕はいまも、三十年前の、勉強ができることだけが取り柄の、気の弱い、背が伸びないことを気に病んでいる子供に戻っている。喧嘩と体育ができることが至上の価値である下町では、勉強ができることなんて屁みたいなものであり、そういう世界にあって僕は明るく楽しい少年時代を過ごしたわけでは全然なかった。あのころだって、いまだって、僕はこういう環境にしっくりなじんで生きているわけではない。

そういう、ある種の「うしろめたさ」のようなもの、どこかわかる気がします。

あ、スティーヴン・ミルハウザーの「イン・ザ・ペニー・アーケード」も、気になります。「シカゴ育ち」「イン・ザ・ペニー・アーケード」も、この本が届くべき人たち、この本を読んだらよかったな、と思ってくれる潜在的愛読者に本が届いていない気がするのだって。

 特にミルハウザーなどは、文系よりもむしろ理系の、ふだん小説なんてあまり読まない、どちらかというと人間とかかわるより機械とかかわるほうが好きな、根のやや暗めの人に潜在的愛読者がいるはずだと思うのだが、残念ながらそういう人のところまでこの本は届いていそうにない。

本は人の心に届いてこそのもの。柴田さんがそういう人に読んで欲しいと思ったこの本、自分がこの本を読んだらどう感じるのかなあ、などと思うのでした。

*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。

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「つまみぐい文学食堂」/ブンガクにおける食べ物とは?

 2007-07-01-18:50
つまみぐい文学食堂つまみぐい文学食堂
(2006/12)
柴田 元幸

商品詳細を見る
目次
~Menu~
メニューについて
~Horsd'Oeuvre~
I LOVE Garlic
Be Vegetarian
不在の食物
根菜類等
~Fish~
鯨の回想風
イカ・タコ
ディナーの席で
~Meat~
菌類
豚肉を食べましょう
一族集合
動物はお友だち
人等
~Specials~
Let's Party
クリスマス特別メニュー
不味い食事
空腹、飢え、断食
~Beverages~
一杯のお茶を持てば
一人酒場で飲む酒は
ブローディガンの犬

~Desserts~
リンゴはなんにも言わないけれど
カフェ等
ワシントン広場の夜は更けて

あとがき対談
INDEX?
INDEX?


「文学」であっても、「つまみぐい」。「文学」だけれど、「レストラン」ではなく「食堂」。漫画家吉野朔美氏による、ユーモラスかつ、ちょっと不気味な絵に相応しく、ここに出てくる食べ物は決して肩肘張るものでもない代わりに、美味しそうなものばかりとも言えず…。

でも、実に楽しい本!

アガサ・クリスティーの食卓 」、「パトリシア・コーンウェルの食卓 」、「宮沢賢治のレストラン 」、「作家の食卓 」など、このブログの中だけでも、作家と料理についての本は結構読んでいるのですが、これら至ってノーマルな本とこちらの本との違いは、ここに出てくる食べ物は必ずしも実在のものではなく、また時にとてつもなく不味そうなこと。「実在ではない」といっても、描かれるのは「物語の中だけに出てくる、実在しない美味しそうな食べ物」などではなく、猛烈にそれが食べたいのに、食べることの出来ない不在の哀しみだとか。

飄々とした柴田さんの語り口、ひょいひょいと話が飛んでいくところもなんだか楽しい(あとがき対談を読むと、「素材が三つあればひとつのエッセイが書ける」とある)。ああ、こんな授業が受けられるのだとしたら、文学部でブンガクを学ぶのも悪くはないよな。いいなー、東大文学部の学生さん。そして、「柴田クン」と思しきキャラクターが描かれるその章の扉絵も実に楽しい(表紙と同じく吉野朔美氏による)。あとがき対談によると、吉野さん自身、柴田さんのファンであるそう。だからこその、この素敵な挿絵なのかな。

INDEX?は人名・作品名・書名から、INDEX?では食べ物の名前から、ページを引くことが出来る。装丁なども含めて、いやー、これはいい仕事だわ。

さて、この中で私が気になったのは、以下の本、ということで、いつものように、メモメモ。

■ケン・カルファス「見えないショッピング・モール」(『どこにもない国 現代アメリカ幻想小説集』)
■ニコルソン・ベイカー「下層土」(『どこにもない国 現代アメリカ幻想小説集』)…ニコルソン・ベイカーが、あのスティーブン・キングに酷評されて「ふん、キングみたいなホラーなら俺にだって書けるさ」と対抗して書いたのだとか。恐怖の源がジャガイモってところがすごい。
■トルーマン・カポーティ「クリスマスの思い出」(『誕生日の子どもたち』)
■リチャード・ブローディガン「アメリカの鱒釣り」
■W・G・ゼーバルト『目眩まし』
■登場回数も多い、トマス・ピンチョンという作家

そして、柴田さんが取り上げておられる本の共通項としては、どうも「妄想」というフレーズがどこかに忍び込んでいるような気がしてなりません。「妄想」といえば、岸本さん(エッセイ「気になる部分 」)ですが、この「つまみぐい文学食堂」を読んですっかり柴田さんのファンにもなったのでした。愛すべき「ヘンさ」「奇妙さ」「奇想」ってありますよね。

これまで読んだ柴田さんの翻訳は、ポール・オースターの「最後の物たちの国で 」のみなんだけど、翻訳もエッセイも、もっといろいろ読んでみたいと思ったことでした。

と、思ったら、スティーヴン・ミルハウザーの「バーナム博物館 」も読んでました。これも面白かったけど、妙ちきりんな話だったなぁ。

「バーナム博物館」/飛翔する物語

 2007-02-28-21:51

スティーヴン ミルハウザー, 柴田 元幸

バーナム博物館 

なかなか不思議で雰囲気のある表紙なんだけれど、出ないようです、残念。

読み終わってもやもやと考えていた事を、「訳者あとがき」にてずばり書かれておりました。
それはこの本のテーマが、「過剰な想像力を抱え込むことの甘美な呪い」であるということ。
想像力は現実を超えて、軽やかに、軽やかに飛翔してゆく・・・。

目次
シンバッド第八の航海
ロバート・ヘレンディーンの発明
アリスは、落ちながら
青いカーテンの向こうで
探偵ゲーム
セピア色の絵葉書
バーナム博物館
クラシック・コミックス#1

幻影師、アイゼンハイム
訳者ノート
訳者あとがき

七つの航海で終わるはずの、シンバッド(シンドバッド)の第八番目の航海(シンバッド第八の航海)、全くの無から自らの想像力によってのみ、幻の女性を創り出すロバート・へレンディーン(ロバート・ヘレンディーンの発明)、ウサギを追いかけてひたすら落ち続けるアリス(アリスは、落ちながら)、上映が終了した映画館の中で、スクリーンの中に入ってしまう子供(青いカーテンの向こうで)、「探偵ゲーム」のプレイヤーたちとゲーム盤の中の世界(探偵ゲーム)、セピア色の絵葉書の中に、私が見たもの(セピア色の絵葉書)、空飛ぶ絨毯、人魚など、あらゆる不思議なものが陳列されたバーナム博物館(バーナム博物館)、コミックスの中のコマの世界(クラシック・コミックス#1)、全てが雨に溶けていく()、世紀の奇術師、アイゼンハイム氏の生涯(幻影師、アイゼンハイム)。

雰囲気が好きなのは、子供の頃の、映画館への恐れが混じった憧れや、映画の映し出されるスクリーンの向こうを描いた「青いカーテンの向こうで」(スクリーンの向こうに、映画館のどこか奥深くに、映画の登場人物たちが隠れていないとどうして言える?)。

面白かったのは、「探偵ゲーム」、「バーナム博物館」、「幻影師、アイゼンハイム」。

探偵ゲーム」は、アメリカで最もポピュラーなボード・ゲームの一つ、「クルー」が元になっているそう。ゲーム盤中央の黒い封筒に隠された、犯人、犯行現場、凶器のカードを当てるのが最終目的。デイヴィッドの誕生日に集まった、ジェイコブ、マリアン、デイヴィッドのロス家の三兄弟と、招かれざる客、ジェイコブのガールフレンドのスーザンの四人で行う、「探偵ゲーム」。現実の緊迫した彼らの様と、ゲーム盤中のコマたちの生が絡み合う。

幻影師、アイゼンハイム」。並外れた技量を持つ、奇術師のアイゼンハイム氏は、とうとう一般の奇術の枠をも超えて、幻術の枠へと進んだようである・・・。アイゼンハイム氏が夜毎の舞台で登場させるのは、幻の少年や少女。言葉も発するし、会話も出来る、しかしながら現実の人間が触れることも出来ない彼ら。さて、どこからどこまでが幻影だったのか・・・?

クラシック・コミックス#1」などは、ちょっと読むのが辛かったけれど、幻想的で奇妙な味に満ちた物語たち。

 ← 新書も。「白水Uブックス 海外小説の誘惑」だって。
            こちらのシリーズも気になります。??

「最後の物たちの国で」/全てが失われゆく街で

 2007-01-19-22:46
ポール・オースター, 柴田 元幸, Paul Auster
最後の物たちの国で ?

ポール・オースター初読みです。翻訳もまた、気にはなっていたものの、これまで読んだことがなかった、柴田元幸さん。

これは、全てが失われゆく街で生きる、「彼女」から「あなた」へと書かれた手紙。裕福でまだ若く、魅力的な女性であった事が示唆される、「彼女」、アンナ・ブルームは、周囲の制止を振り切り、消えた新聞社勤務の兄ウィリアムを追って、その街へと侵入した。

辿り着いた街の状況は彼女の想像よりももっと酷く、兄は勿論見つからず、彼女は生き抜くためにあらゆる手段を取る事になる。彼女と助け合う人々も現れるけれど、この旅は兄を探し出して共にこの街を脱出出来る様な生易しいものでは既になく、彼女は街に閉じ込められる。閉じ込められた、閉ざされた世界の中で、ある人々は死に向かって狂おしく努力し、それ以外の人々は日々を生き抜く事だけを考える。

手紙は街の様子をつぶさに伝えるけれど、普通の世界に住む人々にとって、見たことも聞いた事もない、この街の暮らしは分かって貰えるものでも、想像できるものでもない、と彼女は書く。新しいものは何一つ作られず、人々は死にゆき、赤ん坊は生まれない。そんな街の中で、彼女は恋をし、身篭るけれど、不幸な事故により、やはり赤ん坊は生まれない。

混乱の時代の中、自らの蓄財を切り崩しながら、細々と慈善事業を続けてきたウォーバン博士を創始者とする、ウォーバン・ハウスに身を寄せた彼女であるが、ウォーバン博士の蓄財とて無限ではない。やはりこの施設も永遠ではなく、終焉を迎える・・・。彼女と共に残ったのは四人。ウォーバン・ハウスの物資を一手に引き受けていた、陽気な厭世家ボリス・ステパノヴィッチに、アンナの恋人サムに、ウォーバン博士の娘であり、ウォーバンハウスの後継者であるヴィクトリアに、彼女。

いまこの時点で私が望むのは、とにかくもう一日生き延びるチャンス、それだけです。あなたの古き友人アンナ・ブルーム、別の世界からの便りでした。

彼ら四人は、ボリスの語る突拍子もない御伽噺のように、旅立てるのだろうか。

失われるものを描く点で、小川洋子さんに似たものを強く感じた。何の理由もなく、物事が消え去っていく『
密やかな結晶 』の世界にも近いかも(『密やかな~』で消え去るのは、物に付随する記憶や思いであり、アンナたちの行動は『密やかな~』よりは能動的だけれども)。

引用したアンナの言葉に、「別の世界からの便り」とあったけれど、実際、戦争や内乱の渦中にあったら、それは「こちらの世界」には本当には分からないものであり、渦中にあっては状況も分からぬまま、生き抜く事にただ必死にならざるを得ないのだろうなぁ、と感じた。

柴田元幸さんの「訳者あとがき」より、長くなるけれど引用します。

インタビューなどでも、この作品に描かれた奇怪な事件や状況の大半が、自分の想像の産物ではなく、二十世紀のどこかで実際に起きた(あるいは起きている)出来事を下敷きにしていることをオースターは強調している。たとえばこの小説で詳述される屎尿処理のシステムは、現在カイロで実践されている方式に基づいているし(実際それは、かつて日本で機能していたシステムともそれほど変わらないと思う)、人肉工場でさえ第二次大戦中レニングラードに実在したのだとオースターは述べている。ワルシャワのゲットー、ナチスの強制収容所、今日の第三世界、そして急速に第三世界化しつつあるニューヨーク・シティ・・・・・・。「これは現在と、ごく最近の過去についての小説だ。未来についてじゃない。『アンナ・ブルーム、二十世紀を歩く』―この本に取り組みながら、僕はずっとこのフレーズを頭のなかに持ち歩いていた」(ラリー・マッキャフェリーとシンダ・グレゴリーとのインタビューより)。訳者が最近目にした書物のなかでも、本書にもっとも「似ている」のは、サラエボの芸術家集団が作った、ミシュランをもじった旅行書のパロディ『サラエボ―サバイバル・ガイド』だと思う。

小川洋子さんも『アンネ・フランクの記憶』などの本を書かれているわけで、ポール・オースターの喪失の描き方と共通点があるのかも。そして現実離れして見えるこれらの物語は、決して現実とは無縁ではないのだよな。

また、『サラエボ―サバイバル・ガイド』とは、『サラエボ旅行案内―史上初の戦場都市ガイド』のことだと思われる。
私も以前読んだ ことがあるのだけれど、絶望の中にユーモアがある点で、確かに似たものを感じた。

*臙脂色の文字の部分は引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡下さい。
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プロフィール

つな がる

Author:つな がる
つなです。
「日常」logとも称していますが、そう多くはない手持ちの本、興味が赴くままに借りてきた図書館本の感想が主になります。
興味を持った記事があったり、あなたが読み終えた本について語っていたら、是非あなたの感想を教えて下さい。お待ちしています。

2008年3月23日に、fc2ブログに引っ越してきました。それ以前のamebaブログでの更新も、引っ越しツールによって移行しています(以前の記事は、表示が少々見辛いかもしれません。ご容赦を)。

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