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「ディビザデロ通り」/断片

 2009-04-24-22:13
ディビザデロ通り (新潮クレスト・ブックス)ディビザデロ通り (新潮クレスト・ブックス)
(2009/01)
マイケル オンダーチェ

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amazonの内容紹介から引いちゃいます。

血のつながらない姉妹と、親を殺された少年。一人の父親のもと、きょうだいのように育った彼らを、ひとつの恋が引き裂く。散り散りになった人生は、境界線上でかすかに触れあいながら、時の狭間へと消えていく。和解できない家族。成就しない愛。叶うことのない思いが、異なる時代のいくつもの物語を、一本の糸でつないでいく―。ブッカー賞作家が綴る、密やかな愛の物語。

血のつながらないアンナとクレア。二人の姉妹と共に育ち、アンナと恋に落ちたクープ。そして、二人を許せない父親。共に育った彼らは、ある嵐の日に引き裂かれる…。

そこから描かれるのは、その後の彼らの人生だったり、彼らが出会った人の人生。なんというか、普通の物語だったら、クモの巣を張り巡らす方向に進む所を、既に張られているクモの巣の、細い一本を辿っていく感じというのかなぁ。辿りきったところでぷつっとその糸は終わってしまって、今度は同じ円環上にある違う方向の糸を辿っていく感じ。だから何というか、クライマックスはそこにはなくて、どうなっちゃうのーー?!と思うところで、終わってしまう事もある。

そこがちょっと消化不良の感もあるんですが、これはそういう物語なんでしょうねえ。沢山の人生の断片が、少しずつ重なって響き合っていく。全てを辿ったわけではないから、しっかりと強烈に印象付けられることはなかったのだけれど、なんとなーく、それぞれの人生の一部が自分の中に残る感じ。こういう小説もあるんだなぁ、と思いました。でも、こういう物語物語してないタイプは、私にはちょっと読み辛かったです。
目次
1 アンナ、クレア、そしてクープ
   孤児/赤と黒/マヌーシュ/過去から抜け出す/かつてはアンナとして知られていた人物/名前につまずく
2 荷馬車の一家
   家/アストルフ/旅路/二枚の写真
3 デミュの家
   マルセイヤン/到着/広大な世界/犬/シャリヴァリと夜なべ/恋文/夜の仕事/親類/マゼールの森/畑/考え/戦争/休暇/帰還/さよならを言うがいい

 謝辞
  訳者あとがき
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「アンジェラの祈り」/灰と祈り

 2009-04-14-23:55
アンジェラの祈り (新潮クレスト・ブックス)アンジェラの祈り (新潮クレスト・ブックス)
(2003/11/26)
フランク・マコート

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「アンジェラの灰」(感想)のフランク少年が、アメリカに渡ってから。

実際、ほんとうの意味で一家がまた揃うことはなかったのだけれど、それでも一家がリムリックに張り付いていた頃よりも、幸せな日々が描かれる。ま、本当の意味で幸せか?、というと、そうでない場面もしっかり描かれるんですが。母をアメリカに呼び寄せてから。何はなくとも、きちんと入れたお茶が必要な母(というか、アイルランドの母と言えば、とりあえずお茶みたい)、狭くとも家族全員が揃って暮らしていた暮らしから、母に与えられたのはティーバックのお茶と、一人暮らし…。それでも、兄弟には既にそれぞれの生活があるわけで…。血が近いゆえの甘え、近いゆえの怒りなんかが描かれるのは、まさに大人になったからんでしょうね。

「アンジェラの灰」を読んだ時に、弟マラキの方が生きにくくて、フランクの方が生き易くなるのかも、なんて思ったんですが、実際はマラキはニューヨークに行っても、バーの経営に成功し、一方のフランクは貧しいまま。

ホテルの清掃係から、軍隊生活、波止場でのトラックの積み荷卸し、…そして高校教師へ。アイルランドにいると、アメリカに貧しい人がいるなんて信じられない。しかし、案の定、フランクの生活はかなりの貧しさ。フランクの仕送りは、弟アルフィーの新しい靴に、クリスマスのご馳走に(豚の頭から進歩してるんです!)、母とアルフィーが暮らす新しい家になる。弟たちが同じくニューヨークにやって来て、かつ彼らが成功をおさめていても、それでもフランクは仕送りは欠かしていないよう。

しかし、ふわふわとした語り口(ところどころを締めるのは、「ガッデム!」という誰かの叫びなんだけど)のせいか、時系列で何が起こっているのかは何だか分かり難いのです。一定のテンポで進んでいた前作に比べ、時間は伸びたり縮んだり。

念願の大学生となり、自分には勿体ないような美人のガールフレンドが出来、そして更に彼女に結婚を迫られても、既にそれなりの年齢になっているにも関わらず、フランクは安定を求めるのはまだ早過ぎる、と考えたりもする。マラキに比べ、堅実に生きているかのように見えても、実際は、「たいへんな一日を明日に控えた私だもの、ここは景気づけにビーンポットバーでビールの二、三杯飲むのはしかたがない。」なんて感じで、「~だもの。~なのもしかたがない。」の繰り返しで、自分にとっても甘い甘い。彼女との約束があろうが、次の日に大切な何が控えていようが、ずるずると飲みに行ってしまい、自分の世界に戻っていくことが出来ない所には、父マラキの影を感じてしまう。お金に関しては、たぶん、父よりマシなんだけど(というか、子供が沢山いないから?)。

完全な堅気の生活とは言えなくて、フランク自身が、決まりきった暮らしよりも、所謂アーティストのような暮らしを好んでいるよう。それでも、実際は弟マラキたちのようにパーティを巧みに回遊することも出来ないし、本質的にはとても泥臭いようなんだけど…。自分の世界に戻って行っても、遊んでいる誰かを考えると淋しいし、かといって遊んでいる場所にずっといても、何だか居場所がないような感じ?

高校教師になってから、評判の良くない高校の生徒たちを手懐けたようにどこかで書いてあったので、そういうお話かと思ったら、そういった部分はほんとにちょっぴり。あと、ずっと気になっていたんだけど、フランクが出会い、恋におち、結婚し、娘を設けた女性とは、違う名前が献辞にあるんですよね。そういう意味で、本作は幼少期を丹念に描いた前作とは異なり、フランクの生涯全てをきちんと追った話ではないのでした。

ほんとうに細部まで描かれた「アンジェラの灰」とは違って、細かい話もあれば、ぐーんと飛ばしてしまう部分もある。より小説的になったとでも言うのかな?

「翻訳文学ブックカフェ」(感想)より、訳者の土屋政雄さんの対談の中での言葉を引用します。

そこまでの何十年という積み重ねがあるんで、『灰』で全部を吐き出せたわけではなかったんではないかな。だから、『祈り』はまた違った新しい作品ということではなかったんでしょう。『祈り』にも『灰』を書く以前から書きためていた文章が入っているでしょうし。強いて違う点を挙げるとすれば『祈り』のほうが普通の英語になっているんじゃないかという点ですかね。全部現在形で通してる『灰』と、過去形だのなんだのが入ってきてる『祈り』という感じ。まあそれぐらいで、作家として劇的に変わったという印象はありませんよね。

『灰』も文庫で上下分冊と長かったんですが、『祈り』もまた背表紙の厚さなどが半端なく、ながーいお話です。それでも、長くて退屈するようなことはなかったです。父のエピソードも良かったな。母譲りなのかもしれないけど、何があってもフランクは人を恨むことがないのです。淡々と事実として描かれる中には、恨んでもおかしくないこともあるし、そもそも赦せないと言えば、彼らの父もそうでしょう。赦すというか、そんな弱い人を認めてあげただけなのかもしれませんが、そういう所も、このいっそ陰惨にもなってしまう話が、多少感傷的になったとしても、明るく読めてしまう一因なのかもしれません。

『灰』を読まれて良かった方は、『祈り』も読まれた方がいいんじゃないかなー。やはり、『灰』あっての『祈り』で、狭い範囲の子供の視点から語られた『灰』からすると、一気に広がった視点に最初はちょっと戸惑うかもしれないけれど。

クレストブックスお馴染みの裏表紙の書評の一人は、佐伯一麦さん。うーん、人選がいいですね、これ。

「石のハート」/凍り、そして溶ける

 2009-03-30-22:54
石のハート 新潮クレストブックス石のハート 新潮クレストブックス
(2002/04)
レナーテ・ドレスタイン

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目次
 第一部
学生時代のフリッツ 一九五六年あるいは五七年 秋
ビリー、はじめての海 一九五九年八月
イダの洗礼 一九七二年九月四日
 第二部
ケスター、エレン、バス 感謝祭 一九七二年十一月二十八日
イダ(ケスターの望遠レンズで撮影!) 一九七二~七三年 冬
ミヒールとレゴの城 一九七三年三月三十一日
 エピローグ
 訳者あとがき

震えあがるほど寒い夏の夜、イダがこの世に生まれたとき、わたしたちはすでに四人きょうだいだった。満月にちかかったので午前二時でも十分明るく、鼻のそばかすを数えあえるほどだった。わたしたちは赤ん坊の産声を聞くまで起きていようと約束していた。屋根裏のベッドルームにポテトチップスとコーラを持ちこんで、いちばんあたたかいフランネルのパジャマを着ていた。  (p9より引用)

幸せだった家族を襲ったものとは?、また主人公エレンが、惨劇のあったその家に戻ったわけとは?

サスペンス的な要素を期待して読んだら、これはちょっと違うお話なのでした。

三番目の子ども、エレン。父親から家族の絆であることを求められた彼女は、いったいどうすれば良かったというのでしょう。

氷のように冷たい石のハート。何があっても存在し続けるだろう、墓石のハート型。成長したエレンの心もまた、誰かをその下に埋葬し、凍っていました。その心が溶ける日は…。

彼女たちが待っていた赤ん坊、イダがやって来てから、すっかり壊れてしまった彼女の家庭。大人になったエレンの回想、すっかり気難しい人間に育ったエレンの今、現在。ぐいぐい読まされはするんだけど、なんだか辛い読書でした。責任感の強い少女だったエレンには、こうするしか、こうなるしかなかったんじゃないかなぁ、と。最後は救いなんだろうけど、やり直すことに遅すぎることはないと思いたいけれど、それでもやっぱりこの人生は辛い。

なんだか分からないけど、ばたばたと少女が死んでいく、「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」(感想)と似た匂いを感じる部分もあったけど、なんつーか、こちらの方がリアルに感じる部分があって色々と辛かったです…。新潮クレストブックスのラインナップは結構信頼してたんですが、そうはいっても中には苦手なものもあるんだなぁ、と思いました。力作だとは思うのだけれど、とにかく辛いんだよーー。

「時のかさなり」/四人のこども

 2008-12-03-22:23
時のかさなり (新潮クレスト・ブックス)時のかさなり (新潮クレスト・ブックス)
(2008/09)
ナンシー ヒューストン

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子供は大人が考えるほどに子供ではなく、大人は子供がそう考えるほど大人ではない。

人にはそれぞれ歴史があって、過去の何かがその人の選択や、その人の行動に影響を及ぼしている。私たちの目の前には常にたくさんの選択肢があるけれど、その時、なぜその選択をしたのか、どうしてそのように考えたのか。時には、その行動に自分の過去の経験を感じることがある。

三代遡れば、私たちだって戦争の体験者である祖父母に辿り着く。

ここに出てくるのは六歳の四人の子供。一族四代を遡ることで見えてくるものとは…。
目次
第一章 ソル、二〇〇四年
第二章 ランダル、一九八二年
第三章 セイディ、一九六二年
第四章 クリスティーナ、一九四四~一九四五年
訳者あとがき
南カルフォルニアに住み、暴君として家庭に君臨するソル、ソルの父親のランダル、ランダルの母セイディ、セイディの母クリスティーナ…。

代を遡るごとに見えてくるもの。ソルの語り口で不思議に思っていたことが、少しずつ明かされていく。クライマックスは終章を飾る、ソルの曾祖母にあたるクリスティーナのナチス統制下のミュンヘンでの暮らしだろう。そこには当然ぐわーーっとくるんだけど、むしろ私がすごいなぁ、と思ったのは、本当に本当に細かいところ。

セイディの外反母趾のわけ、セイディの自分への厳しさの由来、クリスティーナ改め歌手のエラが言葉のない歌を歌うわけ(あ、これはクライマックスか)…。うーん、列挙しようと思ったのに、書き出してみると少ないな。

四人の子供たちは育った国も、その環境も全く違う。それでも一緒だったのは、親のことが大好きで、彼らが誇らしく思える自分でありたいと考えていたこと。これはでもきっと、すべての子供がそうだよね。他の章ではどう考えても分が悪い、セイディの章で私はすっかり優等生であらねば、という縛りに雁字搦めにされた彼女に同情してしまいました。長じて(というか、老いて、かな)彼女がどうなったかを知っているだけに、切ないな、これ。

子供のころの核は、良くも悪くもその人の人格を形成する。子供が親になっても、祖母になっても、曾祖母になったとしても、その核というか輪郭がくっきりしているところもすごかったです。六歳から突如大人になっていて、その過程をすっ飛ばしているというのに、やっぱりその人はその人なんだ。

↓以下、「続きを読む」では話の核心に触れております。

「時のかさなり」/四人のこども の続きを読む

「見知らぬ場所」/ジュンパ・ラヒリ、三作目

 2008-11-03-10:26
見知らぬ場所 (Shinchosha CREST BOOKS)見知らぬ場所 (Shinchosha CREST BOOKS)
(2008/08)
ジュンパ・ラヒリ

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ジュンパ・ラヒリ三作目の本書は、短篇と、連作短篇とでもいうべき中編からなっています。そして、フランク・オコナー国際短篇賞受賞作だそうであります。

フランク・オコナー国際短篇賞って何?、と思ったら、あの、イーユン・リーの「千年の祈り」(感想)が第一回の受賞作だそうな。主催はアイルランドのマンスター文学センターというところで、2005年に創設とのこと。比較的若い賞のようですが、村上春樹氏も受賞しておられるそうですよ。
目次
 第一部
見知らぬ場所 Unaccustomed Earth
地獄/天国 Hell-Heaven
今夜の泊まり A Choice of Accommodations
よいところだけ Only Goodness
関係ないこと Nobody's Business
 第二部 ヘーマとカウシク
一生に一度 Once in a Lifetime
年の暮れ Year's End
陸地へ Going Ashore

訳者あとがき
第一部はそれぞれに関連のない短篇、第二部が連作になります。

移民一世ではなく、今回は完全に二世の方に話の軸が移っています。子供のころは、両親により、毎度お決まりのインドへの里帰りに付き合わされたものだったけれど、成長した彼らは違う。彼らの伴侶となったのも、たいていは同族ではない。両親とは違う形で、アメリカの地に根をおろしながら、両親のこと、家族のこと、自分が作った家庭を想う…。インド的なもの、移民的なものが、だんだんに喪われていくからといって、完全になくなってしまうわけではないんだけれど、たいていはそれらを共有することはもうなく、個人としての思い出になってしまっている。

しかしまあ、インドからやってきて、アメリカに完全に根を下ろす。それはきっと並大抵のことではなくて、子供たちも男であれ、女であれ、ほとんどが武装のように素晴らしい学位や仕事を獲得しているのです。そういう意味で、ラヒリの作品は、別にそれでどうというわけではないのだけれど、インテリの作品なのだなぁ、と思います。唯一のドロップアウトというべきは、「よいところだけ」の主人公、スーダの弟、ラフールや、連作「ヘーマとカウシク」のカウシクかしらん。

社会的にも成功して、家庭だって成功を収めているように見える。それでも、どこか自信なさげ、心がどこかに飛んでいるように見えるのも、またラヒリの登場人物たちの特徴でしょうか。伴侶を見つけ、子どもたちが順調に成長していっても、それはなんというか、その個人としての満足には繋がっていないような…。もちろん今の状態が幸せであることを理解しつつも、子供たちが出来たことで、夫婦としての時間を楽しめなくなってしまった、一人の時間が何よりも大切になってしまったと嘆く、「今夜の泊まり」におけるアミットなど。

個人である前に、誰かの妻であり、夫であり、父であり、母であるだけでは、充足出来なくなっているわたしたちの自由。カウシクを思いながら、ナヴィーンの子を産むヘーマは幸せだったのでしょうか。

どれも印象深いお話ですが、表題作の「見知らぬ場所」の父と娘の互いに遠慮し合った愛情が良かったです。それでも、最後に父はルーマの父親であることよりも、自分であることを選ぶんだよなぁ。ジュンパ・ラヒリのこの短篇集。私にはとても現代的であると思えました。
☆関連過去記事☆
・「停電の夜に」(感想
・「その名にちなんで」(感想

・「喪失の響き」(感想
ジュンパ・ラヒリのものではないのだけれど、インテリではないインドがここにはあります。「喪失の響き」はブッカー賞受賞作でもあるし、著者、キラン・デサイがインテリじゃないわけがないとは思うけれども(母、アニタ・デサイも著名な作家だそうです)。

「その名にちなんで」/受け継がれたもの

 2008-05-09-00:02
その名にちなんで (新潮クレスト・ブックス)その名にちなんで (新潮クレスト・ブックス)
(2004/07/31)
ジュンパ・ラヒリ

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「停電の夜に」のジュンパ・ラヒリの、長編小説です。お話としては、「停電の夜に」で言うところの、「三度目で最後の大陸」に近いのかなぁ。新潮クレストブックスは、厚くなりがちな気もするけど、346ページの長編がするすると読めてしまいます。訳者の方の功績なのかもしれないけれど、文章がすごく読み易くて、この世界にするっと潜り込んでいくような感覚を覚えます。馴染みのない世界のはずなのに、物凄く近しい人の話を聞いているような感覚…。そうして、いつしか自分自身の人生についても、重ね合わせて考えてしまう。訳者あとがきにもありましたが、「停電の夜に」の短編はまるで長編のようだったけれど、こちらの長編「その名にちなんで」は壮大な短篇のよう。いやー、良かったっす。
インドからアメリカへとやって来た、アショケとアシマ夫妻の元に生まれた最初の男の子は、ロシアの作家にちなんで「ゴーゴリ」と名付けられた。アメリカに着々と根を下ろしながらも、インドに心を残し、数年に一度のカルカッタへの里帰りを楽しみにする母アシマとは異なり、ゴーゴリはほとんどアメリカ人として成長していく。各々に与えられた個室、レコード、コーラ、ピザ…。ゴーゴリにとって、両親に付き合って訪れる、インドの親戚宅は煩わしい異国でしかなかった。それは、近隣のインド出身の人間で形作られるコミュニティーや、週末毎に行われる両親たちのパーティーもまた。本物のおじやおば、アメリカにおける疑似的なおじやおばも、ゴーゴリには遠いものでしかなかった。

そうして、成長するにつれ、膨らんでくる自らの名前への違和感。父がファンだったから、とだけ聞いていた「ゴーゴリ」という名は、当の作家にとっても、ファーストネームではなく、作品はともかくとして、授業で習ったゴーゴリの人となりも、彼の好みに合うものではなかった。なぜ、父は自分にそんな名を付けたのか。

父がその名を付けたのは、勿論、理由あってのこと。ロシア文学を愛する祖父の元を訪れるために乗っていた列車の中で、若き日の父は脱線事故に遭っていたのだ。多くの人間が亡くなったその事故で大怪我を負いながらも、九死に一生を得た若き日の父が握っていたのは、ゴーゴリの「外套」だった…。直前に話をしていた乗客も死者の一人となり、インドから外へ出ることなど考えていなかったアショケは、その乗客が話していたように外へと飛び出すことを決意する。アショケは列車事故の後を新しい人生だと感じ、それと同じことをゴーゴリの誕生で感じたのだ…。

成長したゴーゴリは、その父の思いを聞く前に、ニキルと改名してしまう。由来を聞いたゴーゴリは複雑な感情を持つことになり、時にゴーゴリとしての自分と、大学以降のニキルとしての自分が分離しているように感じる。主に三人の女性からなる、ゴーゴリの女性遍歴もまた様々。女性たちが変わっても、ゴーゴリの本質は変わらない。また、年を重ねるにつれ、増してくるのは、インド人としてのアイデンティティ。両親や、多くの親戚や、疑似的な親戚であったインド系のコミュニティーとも、ゴーゴリはやはり無縁ではいられないのだ。三人目の女性、インド人の幼馴染、モウシュミとの破局は苦い。モウシュミにもモウシュミの、葛藤があったようなのだけれど…。そうして、最後に知る母の強さ。インドに心を残しているように見えて、母アシマはしっかりとアメリカに根を張っていたのだ。

思いを口にし、体に示して伝えて行くアメリカの人々と、奥床しい移民一世である両親たち世代の違い。ゴーゴリたちの恋愛と両親たちとの違い。ゴーゴリの妹ソニアとアメリカ人ベンの結婚は希望だなぁ。

いまの人は長年かかってなじむというより、まず先に恋愛をしておいて、決めるまでに何ヵ月も何年も考える。昔とは違う。アショケとの結婚を承諾したときは、午後からの半日しか時間がなかった。言うなれば「誰々へ」の名札のようなものだったと思う。いつのまにか捨ててしまったけれど、自分らの生活は、あの札のようなものだった。あの人が私を嫁にすると決めたから思いがけず私にやって来たアメリカ暮らし。なじめるまでには長い時間がかかった。このペンバートン・ロードの家にいて、いまだにわが家と言い切るにはいたらないような気もするが、ここを住処としたことに間違いはない。この手で仕上げた世界がここにある。(p333より引用)

ラストに程近い、母アシマの回想より引用しました。揺るぎない重みのある言葉だと思います。

しかししかし、このインド系コミュニティー。留学し、アメリカで職を持つことが出来た人々ばかりであるからして、恐ろしいほどにインテリばかり。移民であるという他にも、インテリばかりというところにも、ちょっと特殊性があるような気がします。なんとなく、みんな美形ぞろいっぽいしね。
「停電の夜に」よりも、私はこちらの方が好み。「停電の夜に」にあった苦味が分散されてたからかな。読み終わった後、何となく深呼吸してしまいました。ふかぶか~。ああ、いい本を読んだなぁ。

「千年の祈り」/珠玉の短編集

 2007-09-13-23:38
千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)
(2007/07)
イーユン・リー

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目次
あまりもの
 Extra
黄昏
 After a Life
不滅
 Immortality
ネブラスカの姫君
 The Princess of Nebraska
市場の約束
 Love in the Marketplace
息子
 Son
縁組
 The Arrangement
死を正しく語るには
 Death Is Not a Bad Joke If Told the Right Way
柿たち
 Persimmons
千年の祈り
 A Thousand Years of Good Prayers
訳者あとがき

これ、めっちゃくちゃ良かったです!
同じ新潮クレスト・ブックスシリーズでいうと、「停電の夜に 」のような短編集なんだけれど、「停電の夜に」で少し感じた、人生の疲れ、澱のようなものがほとんどない。

かといって、決して悲しくないわけでも、幸せいっぱいなわけでもないのだけれど、感情のエッセンスが純粋に昇華されている感じ。ペーソス、ユーモア、すべてが恬淡と、いっそほのぼのと語られる。

「あまりもの」
行かず後家の林(リン)ばあさんはいつだってあまりもの。寡婦の王(ワン)ばあさんの勧めに従って、今にも死にそうな金持ちの年寄りと結婚しても、全寮制の私立学校に職を見つけても…。
「愛の幸せは流星のように飛び去って、愛の痛みはそのあとに続く闇のよう」
林ばあさんを道で追い越した少女が口ずさむ。

「黄昏」

蘇(スウ)夫妻と、方(ファン)夫妻のお話。いとこ同士の蘇(スウ)夫妻は、遺伝的な障害を心配する親族の反対を押し切って結婚した。すべては確率の話。障害を持つ子が生まれてくる確率は、蘇氏の計算ではごく少ないもののはずだったのだが…。彼らの元に生まれてきた貝貝(ベイベイ)は、重度の知的障害と脳性まひを持っていた。しかし、それは決して不幸ではなかった。皮肉なことに、蘇夫妻を互いに遠ざけたのは、その後の子、健(ジエン)の誕生だった。
 
「不滅」

数々の宦官を送り出してきたわたしたちの町。宦官たちは町に富を送り、わたしたちは宦官が死出の旅に出るとき、盛大に送り出した。王政の時代は過ぎ去って、共産主義がやってきた。わたしたちの町が今度送り出したのは、独裁者、毛主席と瓜二つの顔をした若者。

「ネブラスカの姫君」

医師である伯深(ボーシエン)は、同性愛者でもあった。天安門事件からこちら、人権や、エイズについて語ることの危なさを思い知った伯深は、偽装結婚をしてアメリカへと渡る。幼いころから京劇の男旦(ナンダン:京劇の舞台で女役を演じる男優)として仕込まれ、のちに「娼夫」となった二十歳も年下の恋人陽(ヤン)を残して…。陽は同性愛者であるために、舞台から追われていた。伯深は陽を京劇の舞台に復帰させると約束するのだが…。
アメリカへ渡った伯深の元へ現れたのは、陽ではなく薩沙(サーシヤ)。薩沙は陽の子がお腹にいるのだと話し、中絶を望む。

「市場の約束」
三三(サンサン)は何よりも約束を重んじる。それは友人と恋人の手酷い裏切りにあってなお。三三は頭の中で、彼ら二人のセックスを思い浮かべすらする。それはまるで三人の結婚生活のよう。ところが、彼ら二人の結婚は破れてしまった。だからといって、周囲が望むように、彼と付き合いなおすことなどできようか。三三は何よりも約束を重んじるのだから。

「息子」
今ではアメリカ市民となった三十三歳、独身のハン。里帰りで母に会うたびに、いつも衝突してばかり。子としての務めを抱えた息子でいるのは楽じゃない。同性愛者であるハンは、一生、「母の息子」でいるしかないのだが…。

「縁組」
病弱な母親と暮らす若蘭(ルオラン)。茶葉の販売員である父親は、一年のほとんどを外で過ごす。若蘭が物心ついてから、父親の帰宅は年末の大掃除と春節のみ。父のいない間、若蘭たちを助けてくれるのは、炳(ビン)おじさん。
そして、若蘭が十三歳となったとき、父親は母親にとうとう離婚を切り出した。若蘭は父と共に行くことを望むのだが…。炳おじさんが語る、彼らの家庭に隠されていた秘密。

「死を正しく語るには」

誰かの子供でいることは、その立場からおりることのできない難しい仕事。研究所の中に住み、教師をしている母から逃れ、厖(パン)夫妻の家で過ごす夏と冬の一週間は、「わたし」にとってとても貴重なものだった…。研究所で育った子供たちの遊びの中では、研究所の防犯ゲートから外へ出ることも、灰色の建物に近づくことも許されない。
今ではアメリカで暮らす私は、遠い地で厖夫妻のこと、その近所の人たちのことを思う。


「柿たち」

老大(ラオダー)は十七人もの人間を殺した英雄だ。干ばつに見舞われた「わたしら」が思い出す、老大のこと。これは天罰なのか? しかし、この干ばつがもたらしたのは、日がな一日、槐の老木の下に座って煙管をふかし、だらだらと語り合うけだるい喜び。

「千年の祈り」

離婚した娘を慰めるために、娘が暮らすアメリカを訪れた石(シー)氏。ところが、娘は彼の慰めを受け容れるどころか、迷惑な様子を隠そうともしない。近所を散歩中に知り合った、言葉の通じないイラン人の「マダム」とは、心が通じ合うというのに…。
娘によって暴かれる石(シー)氏の不名誉な過去、そして娘の離婚に至った事情。
どんな関係にも理由がある。たがいに会って話すには、長い年月の深い祈りが必ずあったはずなのだ。愛する人と枕をともにするには、そうしたいと祈って三千年、であるならば、父と娘ならばきっと千年。人は偶然に父と娘となるのではない。石(シー)氏の想いは、娘に届くのか?

長々と書いてしまったけれど、それはどれも甲乙つけ難いお話だったから。短編なんだけど、話がぶわーーーっと広がっていく感じがするのです。

ダイ・シージエも中国人でありながら、フランス語で小説を書いているのだけれど、この作者、イーユン・リーも母語ではなく英語で物語を書く。母語では書けないこと。新しい言語を獲得したからこそ、書けること。中国の文革の爪あとはいまだに深い。

■関連過去記事■
・ダイ・シージエ「
バルザックと小さな中国のお針子 」/一九七一年、中国の青春
・ダイ・シージエ「
フロイトの弟子と旅する長椅子 」/フロイトの弟子にして、ドン・キホーテ、莫(モー)がゆく

「停電の夜に」/世界とわたし

 2007-05-10-00:03

ジュンパ ラヒリ, Jhumpa Lahiri, 小川 高義

停電の夜に

目次
停電の夜に
ピルザダさんが食事に来たころ
病気の通訳
本物の門番
セクシー
セン夫人の家
神の恵みの家
ビビ・ハルダーの治療
三度目で最後の大陸
 訳者あとがき


各所で高評価をお見掛けするこの短編集。そんなに良いなら、と借りてきたのだけれど、これは皆さまが書かれていた通りの、良い物語でありました。
でも、この「書かれていた通り」というのがちょっぴり曲者で、あんまり予備知識無しに読み始めた方が、この世界にどっぷり入れたのかもなぁ、とも思いました。予備知識があったので、「あ、こういう世界なんだよね」と思いながら読んでしまったのが、ちょっと勿体無かった感じ。

カルカッタ出身のベンガル人を両親に持ち、幼い頃に渡米したジュンパ・ラヒリ(そして、これまた各所に書かれていた通り、実にお美しい!)が描くのは、私にはあまり馴染みのない、アメリカにおけるインド系の移民や、インドを舞台としていても、普通の人たちからは少し外れた人たちが生きる世界。
移民である人々は、遠く故郷を離れた町で暮らし、故郷を思う。少し外れた人たちは、「普通」を思う。ここではないどこか、現在ではないいつかに、心を残し、または緩やかに心を奪われている人たちが、織り成す物語。

国と人との関係においても、この物語の中の登場人物たちは、ぽつんと一人立っている感じがするのだけれど、それは人と人との関係においても同じ。夫婦の関係においても、一人一人は他人なんだなぁ、という感じがする。「停電の夜に」における夫婦も然り。暗闇の中だから言えること、暗闇の中ではなく、明るいところで告げたかった事・・・。好みとしては、「三度目で最後の大陸」の夫婦だけれど。「三度目で最後の大陸」で、主人公である男性が語る夫婦の歴史にはじーんとくる。

わたしたちが孤児だったころのあとがきに引用されたカズオ・イシグロの言葉のように、「突然、世間の荒波の中に放り出されたわたしたちも、言ってみればみな孤児のような時期を経験している」わけで、移民という存在を通して、そういう世界が描かれているように思いました。


 ←文庫。でも、クレスト・ブックスの美しさで、単行本の装丁の方に軍配をあげたい。

「ペンギンの憂鬱」/孤独と孤独が寄り添って・・・

 2007-04-11-23:18

 

アンドレイ・クルコフ, 沼野 恭子

ペンギンの憂鬱 

売れない小説家のヴィクトル。短編はどうにか書く事が出来るけれども、中編や長編はとてもとても。ある日、短編を持ち込んだ『首都報知』新聞社で、ヴィクトルは奇妙な仕事を請け負う事になる。それは、新聞の死亡欄、<十字架>に載せる原稿を用意するということ。ヴィクトルがその原稿を書く際には、まだその人物は死んでおらず、ヴィクトルは新聞社のフョードルが集め、編集長イーゴリが赤線を引いた(その部分を必ず入れること!)人物の書類を使って、追悼文書きに勤しむ。

ソ連崩壊後のウクライナの首都、キエフに住むヴィクトルの生活は、このようにして安定していた。ヴィクトルの生活で少々変わったことがあるとすれば、それは彼がペンギンのミーシャと共に暮らしていたということ。動物達に十分な餌を与えられなくなった動物園から、譲り受けた皇帝ペンギンのミーシャ。憂鬱症のミーシャは、夜のアパートの廊下をぺたぺたと歩く。

大物政治家、財界人、軍人を題材とした<十字架>の記事は、順調に溜まっていく。自分の「仕事」がなかなか表に出ないことに、若干の苛立ちと不満を覚えるヴィクトル。ところが、彼が記事を書いた大物達が次々と死んでゆき・・・。

ヴィクトルとペンギン、ミーシャの暮らしに現れるのは、おそらくはギャングである<ペンギンじゃないミーシャ>、そのミーシャに託されたまだ幼い少女ソーニャ(表紙の彼女)、ペンギン、ミーシャの世話を頼んだことで仲良くなった、近所の警官、セルゲイ、セルゲイの姪でソーニャのベビーシッターとなったニーナ、<ペンギンじゃないミーシャ>のライバル、チェカーリン、墓地で出会ったリョーシャ。動物園を退職した「ペンギン学者」のピドパールィ。

どれもこれも、ヴィクトルが積極的に勝ち取った関係性というわけではなく、それは何とも淡い繋がり。彼らの背景の多くを知ることもなく、たとえ闇の部分が見え隠れしようとも、ヴィクトルは色々なことに目をつぶったまま、彼らと親交を結ぶ。それは後に、毎日を共に過ごすことになる、ソーニャやニーナについてもそう。まるで擬似家族のようなこの関係も、また淡いもの・・・。それは『これまでより悪くならないよう祈って飲もう。もう一番いいことはあったんだから』という言葉が現す、この国の情況によるものなのか? こんな社会情勢では、人は互いに深くを知る事のないまま、ほぼ惰性で何となく親交を結ぶ事になるのか。

<十字架>を書いた大物が次々に死んでいき、ヴィクトルの周辺もまたきな臭くなっていく。ヴィクトルは自分が何か良くない事に加担している事に薄々気付きながらも、それについては固く目をつぶったまま。ヴィクトルに関係する死、関係しない死、様々な別れがあっても、それなりに安定しているこの暮らし。このままでどこがいけないのだ?

ヴィクトルが加担している「仕事」、背景で起こっている争いについては、ほのめかされる程度。でも、ソビエト連邦が崩壊し、マフィアが暗躍する、新生国家ウクライナの情況とは無縁ではないのだろう。自分がその大きな動きの中で、どんな役割を果たしているのか分からないまま、その出来事に巻き込まれていく。日本の小説でいえば、三崎亜紀さんの
『となり町戦争』 を思い出すのだけれど、となり町戦争』よりも、この『ペンギンの憂鬱』の方が読後のもやもや感は少なかったなぁ。あちらでは、結局戦争は続いていきますしね・・・(こちらも、その後、好転するかどうかは、全く分からないけれど)。

大きな良くない流れの中で、羽を休めて寄り添うように暮らす、ヴィクトルとペンギンのミーシャ、ソーニャとニーナが何だか切ない。孤独と孤独が寄り添っても、また男女の関係になろうとも、それはぬくもりにはなっても、愛情にまで燃え上がることはない。ヴィクトルはそこに愛情がないことを確りと自覚しているけれど、幸福な世界で出会ったのなら、彼らの関係性もまた異なったものになったのかなぁ。

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つな がる

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つなです。
「日常」logとも称していますが、そう多くはない手持ちの本、興味が赴くままに借りてきた図書館本の感想が主になります。
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2008年3月23日に、fc2ブログに引っ越してきました。それ以前のamebaブログでの更新も、引っ越しツールによって移行しています(以前の記事は、表示が少々見辛いかもしれません。ご容赦を)。

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