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「女信長」/もし、織田信長が女だったら?

 2006-10-06-22:30
 
佐藤 賢一
女信長 

織田信長といえば、知らぬ者などいない、戦国時代から安土桃山時代を駆け抜けた戦国大名。楽市楽座、関所の撤廃などの商業政策、バテレンに学んだ鉄砲の重用、土地に縛られぬ常備軍の編成や、出自ではなくその能力を問題にする能力主義など、その姿勢は実に革新的なものであった。

しかし、これらのことも、商業が盛んな尾張の地で育った、経済に明るい女としての知恵であったのなら、力に囚われぬ、力のみに恃むことをしない、また名誉に囚われぬ、名ではなく、実を取る女としての生き方であったとしたとなら、それ程不思議な事ではなかったのかもしれない。

目次
序章  斎藤山城道山、富田の寺内正徳時まで罷出づべく候間
第一章 御敵今川義元は四万五千引率し
第二章 江北浅井備前手の反復の由
第三章 明智が者と見え申候
終章  徳川家康公、和泉の堺にて信長公御生害の由承り

父、織田備後守信秀は、女である御長を跡継ぎとした。それは、男では一国、二国を取るといった、当たり前の事しか出来ぬであろうと思ったから。なんとなれば、織田弾正忠家はそもそも、大国の主では有り得ない。もとより、その持つものはとても少ない。であるからして、父、信秀は女である御長の自由な心に賭けたのだ。尾張の大うつけとして、あたりを練り歩いてきた信長は、民人の願いを知る。それは、泰平の世だ。とことん勝ち抜いて戦の世を終わらせるのだ。

ああ、天下を一統することの何が難しい? まだ年若い信長は、自身を犯したばかりの斎藤道山に、平らかな声で問いかける。誰も勝ちきれなかったのは、誰も勝ちたくなどなかったからではないか? 男は戦の世が好きだからではないか? 男は戦のために戦をする。しかし、この信長はそうではない。見据える先は、目先の勝利ではなく、泰平の世。天下布武をかけた、信長の戦いが始まる。

覚悟を持って臨んだ信長ではあったが、天下を一統するのはそこはそれ、口で言うほど簡単なものではなかった。戦場で勝手に抜きん出るものを許さない、勝手な行動を許さない、重臣に恃むことをしない、信長のやり方は、家臣たちの反発をも生む。それは男のプライドを引き裂く行為だからだ。女である信長は、御長は、しかし、それを斟酌することはない。はん、くだらない。それで戦に勝てるというのか、それで天下が獲れるというのか。

しかし、その中で抜きん出るものどももいる。勿論、それは、戦場で生臭い兜首を持ってくるような、馬鹿力にものを言わせる働きではありえない。それは頭を使ってこそ。信長の周りを固めるのは、一途な柴田勝家、猿と呼ばう木下籐吉郎、御長が恋し、後に手酷く裏切られることになる浅井長政、幼少期を織田家で過ごした松平元康(徳川家康)そして、明智十兵衛光秀などなど。

戦に継ぐ、戦の中、信長は、御長は、「信長」であることに揺れ、男と女の間で揺れる。「男だから」「女だから」、誰よりも拘るのは信長自身。男である信長、女としての御長の姿を使い分けるものの、年を重ねる毎に、男の体の優位性は御長の中で存在を増し、それに引き替え、ここぞという時に男どもに与えてきた「女」としての肉体は衰える。蝮・斎藤道山が娘、正室の御濃が言うとおり、いつまでも「女を使う」ことは出来ないし、女の身で戦場を駆け回り、ひとり、孤独に決断を下すのは辛いこと。凡百の女とは違うという自負が過ぎるあまり、長年の友であった御濃との仲もおかしくなり、男、信長としても、何をしたいのか、どうすればよいのか、段々と頭に霞がかかるようでもある。

そんな中で存在感を増すのは、明智光秀という一人の男。信長は、男としての余裕、器量に優れた光秀を重用するが、しかし、内心、これまで恃んできた自分自身が崩れてしまうようで、段々と素直にその言葉を受け容れる事が出来なくなる。後年の信長の光秀に対する扱いは、ほとんどヒステリー。自ら崩壊していくようであった信長は、光秀にある問い掛けをする。光秀はそれをどう受けたのか?

終章は、喰えない狸親父二人の会話。

面白かったことは面白かったんだけど、ここで言う「男」、「女」の定義は多少古臭いし(ま、「信長」の考える、男、女論みたいなもんなんだけど)、鮮烈に駆け抜けた織田信長の生き様を語る、最後の狸親父二人の会話もね、「男」どもはあくまでも謀議の世界からは離れられないという感じで、信長の事はうっちゃってしまったようでちょっと淋しい。まぁ、そこはそれ、天下を一変させる天才、異才なくしても、一旦動いた世界は、男どもの謀議の世界で、淡々と進んでいくのかも。

あとあれですね、 佐藤賢一さんの性描写は、「
王妃の離婚 」などはそうでもなかったんですが、なんか、痛そうですよ(まぁ、なんつーか、所謂、男根主義な感じがする)。
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「ジャガーになった男」/ イダルゴ、トラの行く道は

 2006-02-13-10:13
佐藤 賢一 ジャガーになった男 ?

斉藤小兵太寅吉、改めミゲル・トラキチ・サイトウ・アッチラこと、トラは男でござる、ブシでござる、イダルゴでござる。イダルゴとは、イホ・デ・アルゴ(ひとかどの人物の息子)のこと。気風、態度、文化を日本になぞらえて言えば、これ、即ち武士そのものである。

好いたおなごが縋ろうとも、拾った従者に諭されようとも、彼の血が滾るのは、やはり戦場、戦の中。男は前に進まねばならぬ。彼とて、好いたおなごとの平穏な日々を、従者の言う名誉ではなく利を、夢見ぬわけではない。好いたおなごの幸せを、哀れな境遇にあった子供である従者の幸せを望まぬわけではない。

残念ながら、彼が生まれた、生きた時代は、ブシとしての、イダルゴとしての使命がそのまま、女子供の幸せとなる幸福な時代ではなかった。戦国の世は既に終わったのだ。支倉常長率いる遣欧使節の一員となり、イスパニヤに渡ったはいいが、日本では既に徳川家康による全国制覇がなり、頼みとしたイスパニヤとて、既に落日の国、過去の帝国であった。

それでも彼は、イスパニヤのイダルゴ、ベニトを相棒とし、戦場を探し、名誉を求めて、また、それが好いたおなごの幸福となることを信じて、ひたすらに走る、走る。

「恋愛バトン」で思ったけれど、条件だけで人を判断し、好きになれたらこんなに簡単な事はない。そうではない所が、きっと恋情というものの、侭ならぬけれども、美しく神秘的な所なんだろう。

エレナの「イダルゴだけは、愛さないと誓ったもの」という叫びは痛い。それでも、エレナはトラをその全身で愛してしまったから、彼女にはもうああなるしか他、道はなかった。

この物語はラストが好き。女性をばったばったと見捨てていくようにも見えながら、トラは実は少しずつ成長(というのかな、学んでいくというか。時系列によって、女性に対する接し方が若干異なる)しているのだよね。今度こそ、平穏な日々に安住することが出来るのか? とはいえ、やはりそうもいかず、熱きブシ、イダルゴの血が滾るのだろうか。今度こそ、愛しいものと共に、泡沫の夢に遊ぶことが出来るのだろうか。

← こちらは文庫。でも、ちょっと、トラ美男過ぎる?笑

「オクシタニア」2/2-女にとって男にとって、救いとは何か、神とは何か

 2006-01-26-08:28
 
佐藤 賢一
オクシタニア 

昨日 の続き。三章までで、主要登場人物は出揃った。
さて、ここから彼らはどう生きてゆくのか。

第四章 異端審問
 
今ではドミニコ会士となったエドモンが再び語る。

 オクシタニアの異端は容易に撲滅されず、カタリ派の活動は地下に潜り、実態の把握は以前よりも困難を極めた。南部の領主も、聖職者も、領土や荘園を取り戻してしまえば、もとより邪宗の根絶にそれ程熱心ではない。これに業を煮やした教皇グレゴリウス九世は、一二三三年、勅書を発布し、ここに「異端審問」が成立する。そして、この「異端審問」には、新参で信仰に燃える、刷新の修道会であるドミニコ会士たちが当てられた。ここに、ドミニコ会は教皇庁の直属となる。

 三十九歳に長じたエドモンは、パリからトロサに異端審問官として戻ってきた。熱き若者は冷酷な告発者となっていた。彼は全てをあばく。そう、それは故人に至るまで。エドモンは「ドミニ・カラス(神の犬)」と蔑まれながら、棺桶を壊し、肉塊を掘り起こす。キ・アイタル・フアーラ アイタル・ペリーラ(かくなす者は、かく滅びたり)」。火刑、公権剥奪、財産没収…。

 トロサの人間、ほとんど全てを敵にしたようなエドモンに、旧友アントニだけは優しかった。アントニはジラルダの事を忘れよ、と説く。そう、エドモンの異端への怒りは、妻ジラルダに裏切られたという経験と無縁ではありえない。幸福な商人として、薔薇の都トロサで、順風万帆に歩める筈の人生を台無しにされたのだ。しかし、この怒りは既にジラルダに対するものとばかりは言えない。ジラルダを変えた異端に対する怒りであり、そうした思いが行動の地平を広げ、異端審問官を努める今日に通じているのだ。素朴な幸福を認めない、異端カタリ派をエドモンは断じて認めるわけにはいかない。肉体を蔑み、命を軽んじる異端カタリ派は、突き詰めれば死の教えに他ならない。未来への希望なくして、人は果たして生くることが出来ようか。

 自治都市トロサとて、異端審問官にいいようにやられたままではおられない。町の執政団は、レイモン(ラモン)七世に、異端審問の行き過ぎに抗議する意味で、以後は聖界の協力要請に応えないように求める。異端の密告者が殺害され、ドミニコ会と市民は全面対決する。私刑にあったエドモンはラモン七世の知己を得るが、ドミニコ会は執政団の取り決めにより、市外追放の憂き目に会う。

 市外追放にあったエドモンは、異端カタリ派の聖地であるという、ピレネの天嶮に鎮座するモンセギュールの調査を進める。そこにジラルダがいるはずなのだ。一人、モンセギュールへの偵察の道行きを行くエドモンの前に、偶然ジラルダが現れる。改めて出会ったジラルダは、ただジラルダでしかなかった。素晴らしい女でもなければ、邪な女でもない。妻であった頃となんら変わらないジラルダに、エドモンは神の啓示を見る。この女は固く自分に結び付けられた女であり、決して離れられない伴侶なのだ。それでも、ジラルダは彼の元に戻ってきはしない。

 一二四二年、ラモン七世は満を持して反撃の狼煙をあげる。エドモンたち、十二人のドミニコ会士はアヴィニョネ城で袋の鼠となる。彼らドミニコ会士の死骸が、蜂起の狼煙となるのだ。

第五章 無冠の帝王
 
再び、ラモン七世が語る。

 ラモン七世は、フランス王に欠片の忠誠も示さない独立国、異端の国を建てることを夢見る。それはまた、ローマ教皇の薄汚れた権威など、ひとつも通用しない聖域であり、無冠の帝王は無冠のまま、どんな支配者も置かない自由な理想郷を建てるのだ。そう、神の力など頼みはしない、全ては自分の力で整えるのだ。  

 オクシタニア全土が総決起し、南部騎士がラモンの元に集まるが、ラモンはまたも苦杯を喫する。二枚の壁と頼んだ、ラ・マルシュ伯ウグス・デ・リュジャン、イングランド王ヘンリー三世、ともにルイ九世の精鋭軍団に無残に蹴散らされ、ラモンが張った策は全てが裏目、裏目と転ずる。フランス王に降伏せよとの勧告に現れたのは、死んだはずのドミニコ会士エドモンだった。ラモン七世は、またしてもフランス王に敗北する。全てを持っている、恵まれている、勝ちに執着しきることが出来ないラモンは、持たざる人々に勝つことが出来ないのか。

 これらのことと並行して、ラモン七世は白昼夢を見るようになる。肉体は全くの別人でありながら、誰の魂がその身に宿っているのか、彼には見ることが出来る。夢の中には、ジラルダが、エドモンが、また父ラモン六世が、フランス王父子が、騎士シモン父子が、時代は違えど度々現れるのだ。前世でも、現世でも、来世でも、転生するたびに同じ人間に出会うのはなぜなのか。別の時代で魂が交錯していればこそ、人はその出会いに特別な意味を感じ、それが運命というものの真相なのか。

 エドモンに生きるのが怖いのだ、美しく負けたいだけだと看破され、何事かを得心したラモンは、完徳女ジラルダの信仰を、「自分は上等な人間だと思いたい」という心に過ぎにない、と迫る。ラモンとジラルダが似ているがゆえに、エドモンはラモンの苦悩を見抜いたのだ。ラモンはジラルダが毒虫さながらの生命力を恥じながら、ひたすら敬虔な人間であることを求めているだけだ、と断じる。
「あの御坊が欲しいんですやろ

第六章 聖地
 
最後の章は、男たちを結び付けていたジラルダが語る。

 一二四三年、再び十字軍が宣言され、カタリ派の聖地、モンセギュール包囲が始められた。雪が吹き荒ぶ中、ジラルダたちは篭城を強いられていた。ジラルダたち「良きキリスト者」は、雇い入れた傭兵達、南部騎士との生活の軋轢に苦しむ。十字軍の攻撃に晒され、冬山に閉じ込められたジラルダの思いは、現在や過去へと千々に乱れる。肉体を否定し、死をも恐れぬはずが、徐々に狂っていく出家者、完徳者たち、過去、エドモンに頼り、浅ましく救われようとした自分、目前に迫った危機への恐怖に捕らわれる自分。自分の信仰は、ラモン七世の言うとおり、ただ自尊心を満足させる方便に過ぎぬのか。

 砲撃が飛び交い、絶体絶命のモンセギュールにやって来たのは、十字軍の全権代表を称した、ドミニコ会士エドモンであった。いまだ迷いの渦中にいるジラルダに、平らかな目をし、総身に確信を漲らせたエドモンは眩しかった。そもそもは、魂を磨きたいと志を立てたのは自分であったはずなのに、なぜ自分ではなく、エドモンだけが成長できるのか。それは信奉する神の違いなのか、人間としての差であるのか。

 エドモンがやって来たのは、十字軍、聖俗それぞれの総大将の全権大使として、和睦を申し入れるためであった。和睦とはいえその内実は降伏勧告であったが、エドモンは意固地になって篭城している南部騎士たちの気持ちを溶かす。人間は必ずしも道理で動くものではない。さりとて帰依する神が侮辱されたくらいでは、誰も重い腰を上げたりはしない。前後の見境がない程に怒るのは、何よりも可愛い自分が傷付けられるからである。エドモンの言葉には説得力があり、対する教団の司教マルティの言葉は上すべるのみ。

 エドモンの大きさに打たれたジラルダであるが、自分との差を感じるにつけ、何でもこなすエドモンの掌で転がされているような錯覚を受け、やはりここに至ってもエドモンを受け入れることが出来ない。モンセギュール城内の床に埋められた金櫃を掘り出して外に運び出し、新たな傭兵を雇い入れ、一発逆転を狙うことを提案したジラルダは、自らこの困難な道行を志願する。しかし、やはりこの冬山を越える道行きは非常に困難なものだった。遭難しかけたジラルダは、彼女を追ってきたエドモンに助けられる。助けられた山小屋で、ジラルダはようやくエドモンと素直に話すことが出来る。

 ここからのジラルダの素直な心境の吐露は、この長い物語にここまで付き合ってきただけに、感慨深いものがある。恐らくはこの長い物語は、ただこの一組の男女の結びつきを描くためにある。エドモンから、ラモン七世から見たジラルダは、少々得体の知れない存在であったが、彼女はもっと自由に生きたいと願う、ただの若い女であった。彼女もまたようやく、小さな存在であった自分を認めることが出来る。

 ジラルダは一般的な女性とは少々異なるとは思うけれど、これまでの作を読んで「女性が描けないのでは」と疑っていた佐藤作品の中では、格段に「女」である。エドモンに救いを求め、守られながらも、その愛玩犬のような地位に落ちた自分を認めることが出来ない。さりながら、自らの力、才覚で何事かをなす事はならず、自由に生きるために出家したのだ。

 一二四四年、モンセギュールはとうとう降伏勧告を容れ、開城する。城兵は自由に退去することが出来、何人もアヴィニョネ事件の関与を問われない。信仰上の過失を告白すれば、身柄が拘束されることはない。異端の信仰を捨てないものは直ちに火刑に処される。ジラルダは火刑を逃れ、ケリビュス城に金袋を届けた後に、エドモンの元へ戻ることを約束し、更にはエドモンと来世の約束を交わすのだが…。


プロローグエピローグは、老いてトゥールーズの管区長となったエドモンによって語られる。「来世の約束」をした二人の信仰は、既に正統カトリックのものとは思われないが、ひたすらに神を求めた男女は、二人で永遠を手に入れた。生きるとは、肉体が朽ち落ち、魂とて覚束なくなることである。しかしながら、エドモンは来世の約束を胸に、醜くとも生きていく道を選びたいと願う。

ジラルダの行動はかなりエキセントリックでもあり、全て理解出来るわけではないけれど、溢れるエネルギーを持て余しながら、自分を偽ることの出来ないその生き方は、いっそ潔くもある。宗教は生きるためのものなのか、死ぬためのものなのか。神は生きることを望んでいると思うし、このエネルギーを持ったまま、恐れず生き抜いて欲しかったなぁ、と思う。

長く重い物語ではありますが(一章の戦場の描写なども、かなり辛い)、二人の男女の生き方にぴったり添った、満足感、充実感があります。エドモンはちょっと出来過ぎじゃない?、とも思うけれど。意地っ張りのジラルダ、トロサの都そのもののような、ラモン七世の生き方も何だか悲しい。でも、それぞれの人生の輝きを丁寧に描いた本だと思います。あっけない最期を遂げてしまうのですが、一章の神がかり的なシモンも、結構怖いです。「信じる」事の強さと怖さを感じます。読む時によって、誰に感情移入するかは違ってくるのかもしれませんが、登場人物の誰もがそれぞれ非常にボリュームのある人生を送っています。

(オック語、オイル語圏の違いを示すために、エドモン、ジラルダ、ラモン七世など、トロサ(トゥルーズ)の人々の語りは関西弁調です。最初は少々読みづらかったのですが、これが薔薇の都トロサの人々の自由闊達さ、北部フランス人たちの生真面目さを上手く表していると思いました)

*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用を行っております。

「オクシタニア」1/2-神はいずこにおわしますのか?

 2006-01-25-12:42

 

佐藤 賢一
オクシタニア 

この時代、フランスはいまだ統一されておらず、広大で肥沃な土地が広がる南部フランスは、オクシタニアあるいは、ラングドック(オック語圏)と呼ばれていた。そのオクシタニアでは異端「アルビジョワ派(カタリ派)」が蔓延り、正統カトリックが打ち捨てられているという。オクシタニアを治めるトゥールーズ伯レイモン六世は「無冠の帝王」の異名を恣にし、異端を擁護して、此度はなんと、教皇特使を殺害したという。最早手を拱いている段階ではない。カトリック教会は武力をもって、異端アルビジョワ派を討伐することとする。

(今回、あまりに長いので、二本に分けます。今日は全六章の三章まで)

第一章 十字軍
 第一章は、シモン・ドゥ・モンフォールによって語られる。
 
 北部フランス、ランクドイル(オイル語圏)の田舎領主、シモン・ドゥ・モンフォールはオクシタニアを成敗するという、アルビジョワ十字軍に駆り出される。シモンはその益荒男ぶりを裏切って、元来が臆病で気の小さい男であった。田舎領主としての身分や生活に満足していたシモンであるが、夫の栄達を望む妻、「神」を確信した旧知の聖職者に追い立てられるように、十字軍に参戦することとなる。

 四年前、一二〇四年の、第四回十字軍でもほうほうの体で帰ってきたばかり。なぜ田舎領主に過ぎない自分が故郷を離れ、こんな目に合わなくてはならないのか。討つべき「キリストの敵」も二転三転し、戦場における虐殺、略奪など、そのあまりの惨状にシモンは塞ぎ込む。敵が見えない中、ベジエの市民は虐殺され(「ノウィット・エニーム・ドミヌス・クイ・スント・エイス(神は神のものを知りたまう)」のだから)、新たな「敵」とされたトランカヴェル副伯の最後の牙城、カルカソンヌが陥落する。

 これで、無事自分の領土に帰れると思ったシモンの元にやって来たのは、カルカソンヌとベジエの副伯という地位。それには領内に正統信仰を徹底させるという責務がセットで付いて来る。そう、シモンは本末転倒の十字軍に形をつけ、それを切り上げるための捨て駒となった。

 大規模な十字軍は去ったが、シモンは十字軍の俗界の総大将となる。ところが、臣従した筈の都市が、忠誠を捧げた筈の騎士が、たちまち反旗を翻す。手にしたはずの新封が敵と化し、シモンはこの異邦で孤立する。潔癖で不器用な北部人を自認するシモンからすれば、南部人の二枚舌はほとんど卑劣にもうつる。戦いを続けざるを得ないシモンは、ミネルブで異端の完徳者(ペルフエクテイ)たちの火刑を、目の前にする。彼らは賛美歌を歌いながら、幸福感に恍惚と酔うように、ひとり、またひとりと、火の中へ入っていく。このものたちは、一体何なのだ?
もとより、シモン自らも大義に疑問を持つ十字軍、シモンは「神」がどちらにいるのか分からなくなる。

 しかしながら、次の戦場、テルムでシモンは奇蹟を見る。攻略に困難を極めた城の中で、テルム城の全員が赤痢で死んでいたのだ。シモンは異端の神は偽者であることを確信し、迷いが消えたシモンは、鬼神のような強さを発揮するようになる。やさしい父、やさしい夫であったシモンはもういない。そこには、ただ、「キリストの騎士」がいるのみである。もう何も怖いものはない。オクシタニアに神の国を造るために、秩序ある家を建てるために、シモンは破竹の快進撃を続け、たった二年でオクシタニア全土をあらかた征服してしまう。

前半の迷い、愚痴を言うシモンから一転する様が鮮やか。

第二章 薔薇色の都
 第二章は、自治都市、トロサ(トゥールーズ)の名家の息子、エドモン・ダヴィヌスによって語られる。

 フランス南部、オクシタニアの都市、トロサの市民から見た、シモン・ドゥ・モンフォールは、強欲で異常な強さを発揮する、恐ろしい悪魔のような男である。アラゴン・オクシタニア連合軍は、シモン率いる十字軍に散々にしてやられ、アラゴン王ペラ二世も殺されたという。

 第一章の戦いから一転、今度は自治都市トロサの自由な市民の生活が描かれる。シモンには二枚舌で骨がないと侮蔑される南部人であるが、彼らはその財力を背景とし、ただひたすらに自由なのだ。トロサは薔薇色の都であり、人生を謳歌すべき宮殿である。ここでは、強き騎士シモンはがつがつとした成り上がりにしか見えず、頼りなく、市民にも迷惑を掛ける、トロサ伯、レイモン六世が、雅で鷹揚な皆が認める支配者となる。

 さて、オクシタニアで戦が続く中、エドモンは幼馴染のジラルダと結婚する。互いの家同士の釣り合いもよく、そもそもは町でも評判の不良娘であったジラルダが、夜毎エドモンを訪ねて来たことが、二人の馴れ初めでもあり、不良娘が自分だけに胸襟を開く心地よさにエドモンは酔う。ジラルダはなぜ不良娘、蓮っ葉な娘と思われていたのか? 彼女は自分の愛らしい外見、女らしさを認めることが出来ず、また生真面目な思い、感情を持て余し、自分の言葉に応えてくれる人間を求めていたのだ。

 上手くいくと思われていた、エドモンとジラルダの結婚生活に暗雲が立ち込める。エドモンはジラルダと思いを通わせることが出来なくなった。ジラルダは異端である「良きキリスト者」、カタリ派(アルビジョワ派)の教えに傾倒していたのだ。この地上が地獄であるとするカタリ派からすれば、エドモンが求めてやまないジラルダの愛らしい肉体も、必ず滅びるつまらない物でしかない。

 一二一六年は元トロサ伯ラモン父子の反撃で幕をあけた。トロサもそれに呼応して蜂起することとなる。この反乱は騎士シモンによって、速やかに平らげられるが、エドモンはトロサに突きつけられた屈辱の条件をばねに復讐を誓う。一二一七年、エドモンはトロサ民兵隊長として立つ。この一年はジラルダとの間を修復し、互いに言葉を重ね、分かり合うことが出来たと思った一年間でもあった。しかし、その実、エドモンの言葉はジラルダに届いていなかった。この世には悪しき営みしかないとするジラルダの信念は固く、一二一八年、とうとう騎士シモンを倒すことに成功したその日、ジラルダの姿は消え去った。彼女はカタリ派の出家者となったのだ。

 ジラルダに去られたエドモンは荒れに荒れていた。町で偶然会った、ドミニコ会の僧に感化され、エドモンもまたドミニコ会に入信し、出家する。ドミニコ会の僧に言わせると、カタリ派の教えは邪な二神論者のもの。ドミニコ会は、この地上を地獄と決め付け、切り捨てることはないのだという。ここに、エドモンとジラルダは敵対する神を信奉することになる。

第三章 北の王国
 
第三章は、若ラモン、トロサ伯ラモン七世が語る。

 舞台は再び、戦場へ、政治の世界へと舞い戻る。今上トロサ伯となった、ラモン七世は神の存在など信じない。愚かな気分屋で、オクシタニアに未曾有の騒乱を呼び起こした、父と同じ道を歩むつもりもない。騎士シモンの死から五年、未だ闘争は続いていたが、神など信じて、宗派などに翻弄されて、せっかくの生を浪費するつもりはない。

 オクシタニアに再び牙を向いたフランス王を制するために、ラモンは教皇庁に和解を申し出るが、その申し出はブールジュ公会議ではねつけられ、あろうことか、フランス王ルイ八世の新しい十字軍が高らかに宣言される。しかしながら、フランス王ルイ八世は遠征の途中で病に冒され、落命する。神はフランス王の十字軍を罰せられた、これは神意の現れであると、オクシタニアは再び熱狂に包まれる。

 自らの力、美貌を頼み、常に自分を律し、神を利用し、他人を信用することもなかったというのに、なぜか若ラモンは父伯と同じ道を歩むこととなる。和解のために訪れた筈の、北部シャンパーニュ伯の城で、若ラモンは屈辱的な和議条約を結ばされる。女子供と坊主ほど、この世の中に始末に悪いものはない。世の常識というものが通用せず、絶対の優位を信じて疑わないのだ。勝敗が決したわけでもないのに、ラモン七世は屈辱の条件の数々を呑まされる。

 正統の神はどこまでも自分の敵のようである。神を信じる「弱い」人間が救われ、信じない「強い」人間である自分は救われない。これは信じないことに対する神の罰なのであろうか。正統の神、異端カタリ派の神ともに、自らの軍資金として利用していたラモンであるが、ここに正統の神を捨て、オクシタニアに「異端の国」を造ることを誓う。誓う相手は、今では完徳女となったジラルダである。
*************************************************
今日はここまで。延々と書いておくのは、歴史的な流れをここに記録しておくためであります。面白くなくてすみません。直ぐに忘れてしまうのですよ…。でも、これらの大きな歴史の流れの中で、個々人が生き抜いていく様は、重いけれど本当に感動的なのです。 しかし、流石に歴史的事実が、自分の中でまだまだこなれない感じ。13世紀フランス南部、オクシタニア地方の地図、主要登場人物(オック語読み付き)も付いているんですけどね。

2/2 に続く。

*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用を行っております。

「赤目のジャック」/パンドラの箱

 2006-01-16-10:17
 
佐藤 賢一
赤目のジャック

これは、「ジャックリーの乱」を題材とした物語。この耳慣れない「ジャックリーの乱」とは一体何なのか。それは、「1358年に百年戦争中のフランスで起こった大規模な農民反乱」であり、「叛乱の名前は当時の農民の蔑称ジャック(Jacques)に由来するとされるが、当時の年代記作者によって、当初、指導者名がジャック・ボノムと誤って伝えられたことに由来するという異説もある」そうだ(wikipediaより引用)。

佐藤賢一氏による、本作「赤目のジャック」は、この「ジャックリーの乱」に『ジャック」が本当にいたとすれば、一体どんな男だったのだろう』(あとがきより引用)と想像して書かれた本。惨たらしい描写の数々がなされ、人間の暗部がこれでもか、と描かれる。蓋が外された時、そこには何が立ち現れるのか。

北フランスの寒村、ベルヌ村に住む、十八歳のフレデリは絶望していた。彼が生まれ育った村は、傭兵たちにすっかり蹂躙されていた。双子の兄は婚約者を守ろうとして共に殺され、彼の婚約者、栗毛のマリーは傭兵たちに輪姦されていた。なぜこんなことが起こったのか?村人たちのやり場のない怒りはどこへ。傭兵たちに復讐を果たそうにも、彼らは元来流れ者。後を追うこともかなわない。

フレデリが頼ったのは、村にいつからか住み着いた、乞食坊主「赤目のジャック」。ジャックの色素が薄く、時に赤く光る目は、村人たちに「魔眼」として恐れられていたが、その闇の知恵ともいうべき世渡りの術は、村人たちに一定の信頼を得ていた。ジャックは言う。この惨状は誰によってもたらされたものか? それはひとり直接手を下した傭兵たちによるものではない。村人たちは貧しい中から、領主たる貴族に年貢を納め、賦役をこなしていた。それは本来、「守って貰う」代償としてのもの。「守って」くれない貴族に存在意義はあるのか? 戦に負け、傭兵たちを招きいれたフランスの貴族、騎士たち、彼らは一体何ほどのものなのか。

ジャックの魔眼が光り、杖に付けられた、帆立の貝殻が鳴る時、善良であった村人たちの良心は凍る。ジャックは村人たちに刷り込まれた、貴族に対する畏怖の念を破壊する。農民たちの人数は膨れ上がりながら、「世直しの十字軍」を名乗り、貴族を嬲り殺し、奥方、娘を犯し、およそ人が考えうる限りの残虐行為と略奪を繰り返す。より酷いことをしたものが、より高い地位につく。温和な人徳者で知られた村長も、孫のような令嬢の尻に取り付いて離れない。

フレデリがジャックの他に、もう一人神としたのは、赤毛で痩身の貴族の女、ブリジット・ドゥ・ベラトゥール。彼女は過去ジャックとも因縁のあった、冷血の爬虫類にも似る美しい女。彼女に弄ばれたフレデリは、正しい農夫としての人生を否定されたと感じ、貴族の女に対する憎悪の念を深める。

フレデリはジャックを破壊の神と崇め、自分を壊したブリジットを、屈服させるべき偶像、女神として、突き進む。

農民による蜂起は各地に広まったけれど、勿論貴族たちがそのまま手をこまねいているはずもない。これといって策もない農民たちの乱は鎮圧される。偶然にも鎮圧を逃れたフレデリであるが、心優しい旅芸人のジェローム、犯されたのにフレデリを愛してくれた貴族の娘、金髪のマリーを捨ててまでも、「赤」目のジャックの謎、「赤」毛のブリジットの謎、二つの謎を解くために、再び渦中へと舞い戻る。

そこで彼が見た真実とは。
人を操れる筈の「赤目」を開くこともなく、ジャックは処刑台の上であっけなく首を落とされ、誇り高く傲慢なブリジットは、可愛く少々頭の足りない妹マリーにコンプレックスを覚え、可愛がられ、奪われることを望むただの女であった

プロローグとエピローグでは、二十年後のフィレンチェにおけるフレデリの姿が描かれる。「赤目」は何度でも現れ、暴徒と化した労働者の群れが、今度は花の都フィレンチェを駆け抜ける。

「赤目」はしかし、その威力を信ずる人があってのもの。一番恐ろしいのは、それを信じて疑わないフレデリではないか、と感じた。圧倒的な暴力でもって、引け目を感じずにすんだという、栗毛のマリーの気持ちが私には良く分からなかった。互いに毒を飲み込んで、倣岸に見なかったことにしながら、それでもなお互いに優しく接する生活は、果たして幸せなのであろうか。むしろエピローグがない方が、「希望」を感じたように思う。繰り返される破壊、信仰が、人間の真実なのか。

佐藤賢一氏の入門としては絶対にお勧めしない本であり、既にファンであり、氏の色々な著作を読みたい人向けの本。このテーマ、この話を読み切らせる力量は流石と思うが、他の作品で見られるような爽快感は、ここでは全く見られない。

ジャックリーの乱 (wikipediaにリンク)
チョンピの乱 (wikipediaにリンク)

「傭兵ピエール」/男の論理、女の論理

 2005-11-11-09:01
佐藤賢一「傭兵ピエール」

傭兵ピエールと、かの聖女ジャンヌ・ダルクとの関わりを描いた物語。

ジャンヌは神の声を聞いたおとめ。見事、ランスで王太子シャルルを戴冠させるが、敵であったイギリスからは魔女と称され、異端裁判によりルーアンで火刑に処される。

ジャンヌは歴史上の著名な人物であるけれど、一方のこの「傭兵ピエール」とは一体どんな人物だったのか。
************************************************
時代は乱世。フランス王国はアングル王の侵略が始まってもう百年、戦火に苛まれ続けていた。ピエールが傭兵となったのは、父であり、北西フランスのアンジュー地方に広大な領地を持つ、王国屈指の大貴族ドゥ・ラ・フルトと戦場ではぐれたため。ドゥ・ラ・フルトとはぐれたピエールは、荒くれ傭兵集団に拾われ、傭兵の技としては一流の腕を持っていた、頭目(シェフ)のユーグにその技を習う。剣術、馬術はドゥ・ラ・フルトに仕込まれたが、略奪、恐喝、誘拐、追い剥ぎ、人身売買等々の盗賊仕事は、このユーグに仕込まれたものだ。

ユーグの技は優れていたが、その人間は好もしいものではなかった。長じてピエールは、シェフであるユーグを殺し、通称「シェフ殺しのピエール」として、傭兵集団「アンジューの一角獣」を率いる頭目(シェフ)となる。略奪、強姦なんでもござれ。この時代の傭兵は、まさに章のタイトル、「一の巻、傭兵も生きていかねばならない話」の通り、生き抜くために荒んだ生活を送っていた。

私生児であるとはいえ、元来は貴族の出身であるピエールは、幼い頃からキリスト教徒の善、徳を教えられて育った。しかし、それは傭兵として生きるためには役に立たず、かえって妨げとなるものであり、生活は荒み、心は壊れていく。良心の呵責に苦しむ余裕など無く、痛む心をそっくり捨てて、ただ強くなる事を望む日々が続く。

そんな荒んだ生活の中、ピエールは「神の声を聞いた」というジャンヌ・ダルクと出会う。彼女こそ、フランスを救うためにやって来た、ラ・ピュセル(救世主)であった。穢れ無き処女のジャンヌは、戦争が始まったら、自分とはオルレアンで会えるはずだとピエールに告げる。また、いつものように襲い掛かったピエールに、自分の使命を果たした後に、ピエールに処女を捧げる事を約束する。良心を殺し、荒んだ生活を送るピエールに一つの灯りがともる。王太子シャルルをランスでフランス王に戴冠させるのだ。

「シェフ殺し」として恐れられるピエールだけれど、彼はいつも仲間には優しい。その彼を反映して、ピエールの部下たちは実に陽気な連中。もとは托鉢修道士で好色漢・ロベール。商家の出のトマ。ピエールと同じく、貴族の私生児出身の弟分、冷たい美男子ジャン。ピエールの性格はあくまで陽性のもの。無分別にふきまくる所もあるけれど、これは明日をも知れぬ傭兵の世界では、恐怖を吹き飛ばすためにも必要なこと。

ピエールは無事オルレアンでジャンヌと再会を果たし、戦場では彼女を陰に日向に守りながら(だって、彼女はただの村娘で、戦場の論理も知らない)、ランスでの戴冠までを見届ける。

ラ・ピュセルは前述のように「神の声」を聞いたおとめであった。しかし、この「声」は、王太子をランスにて戴冠させよ、というものであり、ここで神の声は途絶え、彼女は「救世主(ラ・ピュセル)」ではなく、ただの人間の娘に戻る。その後のパリでの戦況も思わしくなく、王軍は殆どの傭兵軍団を解雇する。ピエールはその任を解かれるが、ジャンヌは国王より引き続きの従軍を命ぜられる。神の声が聞こえなくなったまま、少女ジャンヌは戦いを続けなくてはならない。ピエールは傭兵であり、雇われなくなってしまえば、もう用はなく、また彼の仲間の傭兵連中も、これ以上の従軍を望まない。

その後、田舎町で燻ぶるピエールの元に、ラ・ピュセルの危機が伝えられ、奪還命令が下される。ピエールは無事、彼女の救出を果たし、ラ・ピュセルはようやく「ただの村娘ジャンヌ」に戻る。ピエールとジャンヌは、これまでも互いに強く惹かれあっていたわけで、これにて全ての障害がなくなったか、というと決してそうではなかった。捕らえられている間に、ジャンヌは処女を非道な形で奪われており、ピエールは自分のこれまでの行いに苦しむ。ジャンヌは彼にとって美し過ぎる存在で、また彼女の痛みは、これまで自分が他者に強いてきたものでもある。ピエールの良心は痛む。

さて、ここからどうなるのか。色々あって、ピエールは領地民に愛される貴族となり、ジャンヌを妻とする。しかし、タイトルの「傭兵ピエール」、これは貴族となった後でも、生涯彼と無縁のものではなかった。
************************************************
「王妃の離婚」「カルチェ・ラタン」 では無かった、モヤモヤが心に残ったのは、ピエールの一生に「傭兵ピエール」の名が付いて回った理由に、心が痛んだから。ピエールがその生き方しか選べなかったのは、彼がジャンヌを伴侶としたから。その意味で、やはり彼女は彼の「牢獄」であった。

ピエールは「女が分からない」から、女に優しい男。
ピエールが好きなのは、こんな女性。

ピエールは女の言い分で生きる女が好きだった。へんに物分りのよい顔をして、男を理解したふりをされるのは、かえってむかつく。なめられてる気がする。おまえになにがわかるってんだ、と返したくなるのである。
その点、女の論理を一貫している女はいい。

ジャンヌはいつだって、自分の論理、女の論理で生きていた。戦場では娼婦の館に乗り込み、「汚らわしい行い」を非難し、潤滑油である猥談には激怒し、妻となってからも、妊娠中に「仕事」に出かける夫を昂然と非難する。

しかし、女は本当に「女の論理」だけで生きていかれるものなのか?
男の組織の論理を、本当に無視出来るものなのか?
お互いの論理が違ったままで、男女はそれでも互いに幸せに愛し合うことが出来るのか?
「牢獄」に自ら入る場合、それは愛しい「牢獄」であるものなのか?

これまで読んだ佐藤氏の物語は、女性の役割が限定されていた、中世フランスに全てその舞台が設定されていた。その中で一番「女の論理」に忠実に生きていたのが、この「傭兵ピエール」のジャンヌ。
この時代には普通のことであったのか。

しかし、現代に生きるものとしては、ある程度「男性的」な教育も受けているわけで、昂然と男性の論理を非難し、女の論理で生きることは難しい。
もし佐藤氏が現代にその舞台を移すとしたら、その中の男女はどう動き、どう愛し合うのだろうか、と思った。

物語としては非常に面白いものではあり、ピエールの性格も魅力的であったのだけれど、その辺りの「痛み」が読むスピードを鈍らせ、また読んだ後も何だかモヤモヤとしたものを残した。

 ← 私が読んだのはこちら
佐藤 賢一
傭兵ピエール
 ← 既に文庫化されているようです
 でも、表紙はハードの方が好きだなぁ。

*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。 

「カルチェ・ラタン」/神は存在なりや?

 2005-10-28-08:58
佐藤賢一「カルチェ・ラタン」

時は16世紀、舞台は学問の都、パリのカルチェ・ラタン。主人公は、今ひとつ世慣れない、童貞のパリ夜警隊長ドニ・クルパン。ドニは親の威光で夜警隊長に就任した、裕福な商人の次男坊。

この物語は「ドニ・クルパン回想記」という体裁をとっていて、巻頭と巻末には、ドニ・クルパンの子孫による序文や、「ドニ・クルパンとその時代」と題する佐藤賢一氏の解説文が載せられている。巻頭と巻末はちょっと堅苦しくもあるのだけれど、始まってしまえば、中世のフランスが生き生きと描かれる。

ドニ・クルパンは親の七光りで隊長になっただけあって、部下である隊員たちにもなめられてばかり。もともと彼はあまり優秀な方ではなく、学生時代の家庭教師、マギステル・ミシェルには「泣き虫ドニ」などという不名誉な渾名を進呈されている。

夜警隊長であるドニは、彼の管轄内で起こった事件を解決しなくてはならない。ドニは名探偵ばりの頭脳を持つ、マギステル・ミシェルに助けを求め、彼を職務に引っ張り出す。ミシェルは、眉目秀麗、頭も切れるが、女たらしの破戒僧。ドニがミシェルに泣きついた日も、彼は印刷屋の美貌の未亡人、マルトさんの所にしけこんでいると思われた。

ドニとミシェルはコンビを組んで事件を解決していくが、一つ一つは関係がないように見えた事件は、実はパリを揺るがす大きな一つの事件に収束していく。

これは「泣き虫」ドニの成長物語でもあるし、この時代の神学の砦であるカルチェ・ラタンを舞台としているだけに、カトリックとプロテスタントの対立が描かれ、宗教改革の嵐が吹き荒れる、この時代の学僧たちの青春群像であるとも読める。神の時代ではなく、人間の時代が来たときに、マギステル・ミシェルは、ジョン・カルヴァンは、フランシスコ・ザビエルは、イグナチウス・デ・ロヨラはどう行動したか?

最初は女たらしで、ドニに皮肉めいた警句を繰り返し、傍若無人に振舞うマギステル・ミシェルを、ドニの身になってちょっと恨めしく思いながら読んでいた。しかし物語が進むにつれ、ミシェルの本質が、研ぎ澄まされるように浮かび上がってくる。ミシェルの真実は、強く哀しく清廉であるように思う。

「エッセ・エスト・デウス(神は存在なりや)」

佐藤氏の本はこれでようやく二冊目なのだけれど、現実に生き、包容力があって強く、しかしながら弱い女性、悪ぶっているけれど、純粋な心、真っ直ぐな精神を持ち続けている男性がいいと思う。

「マギステル・ミシェルの鉄則、その一、女は何度でも生まれ変われる」

男に殺してもらえるから、男にその辛い過去を清算してもらえるから、女は何度でも生まれ変われる。そして、その時、男はその女の「小さな神」となる。ラストは、「ドニ!よくやった!」と声を掛けてあげたい気分になる。

 ← 私が読んだのはこちら
佐藤 賢一
カルチェ・ラタン
 ← 既に文庫化されているようです

*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。

☆関連過去記事
「王妃の離婚」/結婚とは、人生とは

中世の異端の話としては、こちらも面白かった。
ゴシック歴史ロマン/「グノーシスの薔薇」
十五世紀末から十六世紀初頭のルネサンス爛熟期に、教皇レオ十世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)に仕えた小人、ジュゼッペ・アマドネッリ(ペッペ)の手記という形をとった物語。

「王妃の離婚」/結婚とは、人生とは

 2005-10-06-08:51

佐藤賢一「王妃の離婚」

その舞台とされている背景に馴染みがないものだから、佐藤賢一さんの本を一度も読んだことがなかった。でも、ずっと気になってはいた。

今回、この本を手に取った切っ掛けは、「手当たり次第の本棚」のとらさんの記事を読んだ事。

とらさんの記事はこちら→『王妃の離婚

面白そうでしょ?

実際読んでみても、これはかなり面白かった!

題名にもあるように、これは時のフランス国王と王妃の離婚を題材とする物語。中世フランスを舞台とするので、予備知識がないと楽しめないのでは、と思ったのだけれど(勿論、予備知識があれば、より楽しめるのだろうけど)、予備知識が全然ない私でも、十分に楽しめた。

目次
プロローグ
第一章 フランソワは離婚裁判を傍聴する
第二章 フランソワは離婚裁判を戦う
第三章 フランソワは離婚裁判を終わらせる
エピローグ

教会、法廷、学問(カノン法学)などなど、とてもエンターテインメントになるとは思えない題材が、感心するほど生き生きと描かれる。ほんとに、血湧き肉躍る一大スペクタクルなんだ。

主人公は、かつて学問の道を諦め、今では「田舎弁護士」に納まった、中年男性フランソワ。アカデミックな道を諦め、俗な職業に身を落とした彼は、人生の落伍者、挫折者でもある。しかし、かつて切れ者として、パリ大学で鳴らした男は、その心意気を忘れてはいなかった!
彼の過去の話や、王家との因縁など、色々と絡まって、物語は進行する。

一章から二章にかけては、ぐいぐいと読まされた。ここらへんは、すごくエンターテインメント! 三章は、それぞれの人生の物悲しさを感じさせられる展開。それぞれ、自分の信ずる所を大事にして、生きただけだったんだなぁ。王妃の悲しみや、フランソワの人生の苦さが痛い。でも、最後の二人の「輝き」が良かった。最後は二人とも救われる。明るいほうへ、明るい未来へ。 ****************************************
■中盤の法廷の場面は、手練れの弁護士であるフランソワが、判事や検事を思うがままに翻弄する様が小気味よい。あまり出来の良くない敵側の中で、ただ一人切れ者の判事と、目配せで通じ合うところなんかも、実にかっこいい! 民衆の野次に同調してしまう。

そもそも、カトリックでは離婚が許されておらず、事実上の離婚を得るためには、「結婚の無効取消」という手続きに訴えることが必要になる。つまり、はじめからなかったことにする、という理屈。

それで、法廷の場面がどんな感じかというと、「結婚の完成」を論議する中で、ラテン語で喋らなければ、裁判記録に記載されないことを逆手にとって、独り言の私語を装って、こんなことをフランス語で呟くのだ。
「美人じゃないから、やらなかったなんて、どう考えてもインポ野郎の言い訳じゃねえか」
傍聴席、大盛り上がり。

普通は、国王という権力者に対して、こんなこと言えないよねえ?

■後半、悲しくも美しいなぁと思ったのは、ここの記述。

それは悲しむべき堕落だった。が、人間には救いであるということも、恐らくは動かせない真実だった。なんとなれば、恋は汚れなき聖者の技である。恋をするとき、人は嘘をつくまいと思う。その愛に値する魂であるために、心から正しくありたいと、どこまでも純粋でありたいと願わずにはいられない。そんな奇跡が一瞬だけ、かなうものだと錯覚できても、不断に男と女でいられるほど、人間は美しくありえない。なおも美しくありたいと願うなら、もう男と女には、結婚するくらいしか他に手がないのだろう。
なぜなら、結婚は一瞬の美しさを永遠にまで高めながら、神秘の力で宝の箱に封印する。それは、どこか人間の死に似ていた。

一瞬の輝きさえあったなら、人生は永遠に肯定される。どんなに醜く生きたとしても、はかない栄光は決して傷つくことがない。
****************************************
「歴史小説」と思って敬遠していたけれど、人物造形に優れていて面白かった。決してかっこよくない、むさ苦しいフランソワもかっこよかったし、「美しくない」という王妃も実に愛らしく美しい。

 ←私が読んだのはこちら
佐藤 賢一
王妃の離婚
 ←既に文庫化されています
佐藤 賢一
王妃の離婚

*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。
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つなです。
「日常」logとも称していますが、そう多くはない手持ちの本、興味が赴くままに借りてきた図書館本の感想が主になります。
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2008年3月23日に、fc2ブログに引っ越してきました。それ以前のamebaブログでの更新も、引っ越しツールによって移行しています(以前の記事は、表示が少々見辛いかもしれません。ご容赦を)。

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