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「天使と悪魔」/科学か神か

 2009-07-30-13:49
天使と悪魔 (上) (角川文庫)天使と悪魔 (上) (角川文庫)
(2006/06/08)
ダン・ブラウン

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天使と悪魔 (中) (角川文庫)天使と悪魔 (中) (角川文庫)
(2006/06/08)
ダン・ブラウン

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天使と悪魔 (下) (角川文庫)天使と悪魔 (下) (角川文庫)
(2006/06/08)
ダン・ブラウン

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勢いでガーっと読んじゃったままに、ブログ上に感想を書くことをしなかったんですが、「ダヴィンチ・コード」は読んでるんです。あれは、本→映画の順だったんですが、こちら「天使と悪魔」は、映画→本の順番。ダヴィコーは本の方が面白かったんですが、結論から言っちゃうと「天使と悪魔」は映画の方が良かったなぁ。

ほとんどがセットだったらしいですが、映画の方はローマの名所や、ヴァチカン内部をバリバリと見せてくれるわけですし。CERNの内部(いや、どこまでが本物だったのか、私には分からないけど)が見られたのも、映画に軍配な感じです。だって、普通見られないものねえ。

同じラングドン教授による謎解きとはいえ、今回はタイムリミットもシビアに切られてるし、謎解き自体が簡単に言っちゃうと、「この像はあっちの方向を指している!」とかそういう程度なんです。この辺りも、映像の方が強い所以かも。本を読んでると、細かい設定はちょっとずつ変ってる部分もあるけど、うまーくエピソードを繋いで、映画化したことが分かって、これは原作を掬いとった脚本家が巧かったのかしら。しかし、生物物理学者のヴィットリア、とても魅力的なんですが、ダヴィコーには出てこなかったよねえ?(メモってないんで、ほとんどを忘れてしまったよー)

おお、と思ったのが、以下の部分。エネルギー問題は難しいですよね。

新たなエネルギー源を生み出すために、営利主義を避けることはできない。反物質には、経済的で汚染と無縁のエネルギー源としての底知れぬ可能性があるが、公表する時期を早まれば、原子力や太陽熱のエネルギーと同様、政策や宣伝上の失敗によって台なしにされかねない。原子力の場合は安全性を確立する前に量産され、事故が多発した。太陽熱の場合は効率を高める前に量産され、人々は金銭的な損害をこうむった。 (上巻 p148より引用)

太陽電池の変換効率も、まだまだ低いものなんだよねえ。

↓映画が見当たらなかったのでサウンドトラック。
天使と悪魔 オリジナル・サウンドトラック天使と悪魔 オリジナル・サウンドトラック
(2009/05/13)
サントラ

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「遠い水平線」/境界線

 2009-01-25-22:26
遠い水平線 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)遠い水平線 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
(1996/08)
アントニオ タブッキ

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内容(「BOOK」データベースより)
ある夜運びこまれた身元不明の他殺死体。死体置場の番人スピーノは、不思議な思いにかられて男の正体を探索しはじめる。断片的にたどられる男の生の軌跡。港町の街角に見え隠れする水平線。カモメが一羽、ぼくを尾けているような気がする、と新聞社の友人に電話するスピーノ…遊戯性と深遠な哲学が同居する『インド夜想曲』の作者タブッキの傑作中編。

事件性もあれば、主人公たるスピーノは、探偵もどきの行動を始める。それでもどこか非現実めいている不思議なお話。

主人公スピーノは、医学の道を途中であきらめ、今は死体置場の番人となっている男。身元不明の他殺体が運び込まれたことから、彼は男の正体を探り始める。スピーノと男の間には、何の関係もなく、そもそもスピーノが熱心に彼の身元を調べる理由も、彼に拘る理由も何もない。スピーノには、恋人サラと過ごす時間だって必要なはずなのに…。

スピーノの行動は、死んだ男ゆかりの修道院の司祭とのやり取りに集約されている。

「どうして、彼のことを知りたいのですか」
「むこうは死んだのに、こっちは生きてるからです」

スピーノは、男の死を重大な事件のように受け止め、自らの近くにもスパイがいる(カモメが一羽、ぼくを尾けているような気がする)かのようにふるまうのだが・・・・。生と死の淡い境界線。その合間を漂うような一人の男。何だか不思議な読後感のするお話でした。

幻想的な雰囲気は好きだったのだけれど、これ一冊では良く分からないので、次は、「インド夜想曲」に行ってみようかな~。タブッキといえばこれ、でいいのかしら。

インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
(1993/10)
アントニオ タブッキ

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しかし、この本は薄いのだけれど、行間が空き過ぎているせいで、矢鱈と読みにくかったのです。あんまり詰まってるのもなんだけど、目を通す際に、適当な行間ってあるよねえ。

「まっぷたつの子爵」/善と悪と

 2008-10-14-23:44
まっぷたつの子爵 (1971年) (文学のおくりもの〈2〉)まっぷたつの子爵 (1971年) (文学のおくりもの〈2〉)
(1971)
イタロ・カルヴィーノ

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トルコ人との戦争で敵の砲弾を浴びたぼくの叔父、テッラルバのメダルド子爵は、まっぷたつになってしまった! 帰郷した右半身だけの叔父は、容赦のない悪の存在となっていた…。子爵が通り過ぎた道には、子爵によりまっぷたつにされた物たちが残され、村人たちは子爵の訪れを知る。

子爵は村人たちを刑に処する事を喜び、腕の確かな親方に、優れた拷問の道具、処刑のための道具を次々に作らせる。村人たちは子爵を恐れ、親方は自らの作り出す道具がもたらす結果に苦しむ。

そんな中、今度は砲弾により吹っ飛んだと思われていた、子爵の左半身が帰って来た。右半身とは異なり、こちらの左半身は博愛精神に充ち溢れた、まったき善の存在だった!

両者が同じ一人の娘、パメーラに惚れ込んだ結果、決闘が行われることになったのだが…。
まったき悪とまったき善と、子爵はきっぱり二つになってしまったわけですが、悪はともかく善であったとしても、完全な善はそれはそれで迷惑な存在なんですねー。最初はまっぷたつになった子爵に困惑し、彼の残虐な行為に戸惑いながら読んでたんですが、これは完全なる寓話なんだよね。全く医者らしい行いをしない元・船医や、陽気なライ病患者たち、既に意義が失われた信仰を保ち続けるユグノー教徒たちなど、他の登場人物たちもなんだか意味深な存在なのです。清濁併せのむというのとはまた少し違うかもしれないけれど、何でもすっぱり善と悪の二つに分けるわけにはいかないんだよねえ。村人たちにとっての善を押しつける、左半身の「善半」子爵の存在はユグノー教徒たちにとっては、迷惑でしかない。

私は上に載せた方の表紙で読んでたんだけど、下の表紙で読んでたら、また印象が変わっていたかもしれません。ユーモラスな感じで、同じ文学のおくりものシリーズだというのに、えらく違うと思いませんか~? 次は「木のぼり男爵」だ!

まっぷたつの子爵 (ベスト版 文学のおくりもの)まっぷたつの子爵 (ベスト版 文学のおくりもの)
(1997/08)
イタロ カルヴィーノ

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「タタール人の砂漠」/人生というもの

 2008-10-07-23:32
タタール人の砂漠 (イタリア叢書)タタール人の砂漠 (イタリア叢書)
(1992/01)
ディーノ ブッツァーティ

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できれば本に埋もれて眠りたい」のbookbathさんにおススメ頂きまして、読んだ本です。新訳、「神を見た犬」も気になるディーノ・ブッツァーティ。とは言いつつ、お勧め頂かなければ、きっと読まなかった本。ブッツァーティの没年は1972年とのことですが、全く古さは感じませんでした。

「訳者あとがき」にて、これは幻想文学である、と書かれているんだけど、じーつーはー、全く「幻想」だなんて思わずに読んでました。そんな私の本の読み方は、実は素直すぎるかもしれないなんて、最近良く思ったりもします。そのまんまの意味にとりすぎ?汗

さて、物語は青年将校、ジョヴァンニ・ドローゴの生涯をたどる形で語られます。

任官したばかりのドローゴは、町から離れた、古い古いバスティアーニ砦に配属される。国境にある砦としての、重要な時期は既に過去のものであるというのに、それでも砦では、儀式めいた昔ながらの滑稽なほどの厳重な警備が日々繰り返される。

当初、直ぐにこの砦を去るつもりでいたドローゴは、何かを待ち続けるような砦の古株の将校たちにつられてか、自ら砦に残ることを志願する。去って行く者もいれば、残る者もいる。くだらない事で命を落とす者もいれば、後に羨ましく思われるようなやり方で、命を落とす者もいる。そうして、本当に砦を去りたいと思った時には、去ることも出来なくなっているのだ…。そして、ドローゴの掛け替えのない青春の日々は、自身すら気付かないままに、過ぎ去っていく。

ドローゴは、ただただ何とも知れないものを待ち続け、日々は無為に過ぎ去り、年だけがただ重ねられていく。

砦には何も起こらないかといえば、そんなこともなく、ある日、見つけたのは砦の向こう、北の荒野に見える、一筋の小さく黒く細い線。とうとう、待ち続けたその時が来たのだろうか? しかし、その期待は裏切られる。それは、国境を確定する任務を帯びた北の王国の部隊であり、砦の者たちが待ち続けた戦はまだ来ない…。

時が流れ、ドローゴはもはや、彼の古い友人である町の人間と相容れなくなった自分を知る。友人たちが家庭を作り、子をなし、財をなしていく中、彼には砦で待つ僅かな期待しかない…。恋人と言って差し支えなかった、友人の妹とも最早共に生きていくことはないであろうことを知る。

更に時が流れ、友人たちが孫に囲まれ隠居生活を送る中、ドローゴに与えられたのは病。そうして、とうとう砦に待ちに待ったその日がやって来たというのに、病を得たドローゴは砦を追い出され、更には一人、死に向かうことになる…。
人生は、何の保証もないものをただ待ち続けるには短過ぎて、またそのタイミングは時に皮肉であったりもする。ドローゴの周りの人たち、後にドローゴ自身がその姿となる、待ち続けたオルティス大尉、自らの美学に従って死出の旅へ出たアングスティーナ、待ち続けたことで希望に対して臆病者となったフィリモーレ大佐も印象深い。

人は生きる時も死ぬ時も、結局は一人。運命は人の思うようにはならず、時には皮肉としか思えない運命を与えられる者もいる。自分の思うようになるものは、「死」に向かうその姿勢でしかないのだろうか。

ペシミスティックなのかなぁとも思うけど、登場人物たちそれぞれが印象深く、味わい深い物語でした。情景も美しく、読む時期によって、文章から感じ取るものも違いそうです。bookbathさん、読んで良かったです! おススメありがとうございました♪

「スコルタの太陽」/一族を形作るものとは何か

 2008-09-04-22:08
スコルタの太陽 (Modern&Classic)スコルタの太陽 (Modern&Classic)
(2008/06)
ロラン・ゴデ

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一族というものを形作るのは一体何なのだろう? 「家族」ではなく「一族」。それにはたぶん、血を分けた者同士である必要はないのだ。

イタリア、ブーリア地方、強烈な太陽が照りつける貧しい村。ある男の間違いから生まれた、父も母もない、ロッコ。ロッコは、彼をひきとった漁師夫婦の名と、父親の苗字をかけ合わせ、ロッコ・スコルタ・マスカルツォーネという新しい名を名乗る。

父親をただのちんぴらとするならば、自らを伝染病だ、飢餓だというロッコは、正真正銘の悪党だった。あくどい手口で金を集め、権力者となったロッコは、しかし自らの死に際し、その財産のすべてを手放してしまう。それがロッコの呪い。ドメーニコ、ジュゼッペ、カルメーラ。ロッコの子供たちは、裕福な暮らしから一転、貧しさの極地へと追い込まれる。

さて、スコルタの者を、スコルタたらしめているものは何なのか。それはロッコの呪いかもしれないし、ロッコから受け継がれた飢えかもしれない。カルメーラは結婚し、子をなしてもなお、夫に属するわけではなく、スコルタの者であり続けた。カルメーラを愛していた三兄弟の友人も、ある儀式を共に行うことでスコルタの一族となり、カルメーラへの愛を封印する。

さらに一族の結束を強めているのは、秘密を持ち、然るべき時にその秘密を継ぐべき者に、語り継ぐというその行為。自らが体験した真理を語り継ぐという行為。頑ななまでに、自らを一族に縛り付けるその行為。

強烈な太陽の日差しと、強烈な矜持。なんだか不思議な小説でした。詩的で古い雰囲気もあるんだけど、その古さは少し新しい古さに感じてしまいました。なんというか、ちゃんと古くない感じ?

ゴンクール賞受賞作とのこと。でもね、決して悪い小説ではなく、嫌いでもないんだけど、凄い!という感動がないんだよなぁ。「ファラゴ」と同じ、河出書房新社のModern&Classicシリーズなんだけど、このシリーズ、シリーズとしてあまり好きではない感じ(と、思ったけど、今見たら、同じModern&Classicシリーズでも、ほんとは結構いろいろバリエーションがありそうなのね。コンセプトはなんだろう? 二冊読んだとこだと、民話的、神話的なお話かと思ったんだけど)。

「魔法の庭」/美しい泡のような短編集

 2008-08-14-00:04
魔法の庭魔法の庭
(1991/09)
イタロ カルヴィーノイタロ・カルヴィーノ

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目次
蟹だらけの船
Un bastimento carico di granchi, 1947
魔法の庭
Il giardino incantato, 1948
不実の村
Paese infido, 1953
小道の恐怖
Paura sul sentiero, 1946
動物たちの森
Il basco degli animali, 1948
だれも知らなかった
Mai nessuno degli uomini lo seppe, 1950
大きな魚、小さな魚
Pesci grossi, pesci piccoli, 1950
うまくやれよ
Va’ cosi che vai bene, 1947
猫と警官
Il gatto e il poliziotto, 1948
菓子泥棒
Furto in una pasticceria, 1946
楽しみはつづかない
Un bel gioco dura poco, 1952
解説―和田忠彦
イタロ・カルヴィーノを読むのは初めて。もっとトリッキーなイメージを持っていたんだけど、これはそうでもなかったです。印象に残るのは、とにかくきらきらした美しい情景。そこに、イタロ・カルヴィーノ自身の経歴によるものか、パルチザンのお話が忍び込む。とはいえ、それは隣のお兄さんが活動に身を投じてしまったようなもので、決して勇ましくも、あまり血なまぐさくもなく、普通の人の怯え、恐れなどが伝わってくる。

なんとなく短編それぞれのイタリア語を書き残しておきたくて、メモを取っておいていたのだけれど、ずいぶん前に読み終わってしまったので、一編一編の感想は実は既に朧。今残っているイメージは、世界は美しいなぁ、ということを、自分が海底にいて、光射す海面の方を眺めている、そんな感じ。ぷくぷくぷくぷく立ち昇る美しい泡のような短編とでも言いましょうか。
私は例によって図書館でハードカバーで読んだんだけど、文庫のデザインもなかなかいいな。
魔法の庭 (ちくま文庫 か 25-3)魔法の庭 (ちくま文庫 か 25-3)
(2007/08)
イタロ・カルヴィーノ

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「ラグーナ/LAGUNA」「アックア・アルタ」/水の風景

 2008-03-01-21:24

河名木 ひろし

ラグーナ―もうひとつのヴェネツィア (Bee books)
アックア・アルタ―ヴェネツィア高潮 (Bee Books)
Bee Books


花粉症で疲れた目に優しい写真集。笑 ほんと、コンタクトが入んなくて、困っちゃいます。

と、それは置いておいて、本の話にもどります。ラグーナ/LAGUNA」は副題に「もうひとつのヴェネツィア」とあるのだけれど、ヴェネツィアではなく、その周辺のラグーナの佇まいを写したもの。

先日読んだ、塩野七生さんの「漁夫マルコの見た夢 」のマルコが住んでいたような辺りなのかな。この風景は、昔からあんまり変わっていないんじゃないかなぁ、と思いました。

この中で、私のお気に入りの一枚は、「Laguna Nord」という遠くに陸を望む一枚。ほとんど官能的とも言える、緩やかな波が美しいです。こういうのは潟ならではの風景なのかな。

もう一冊の、アックア・アルタ」はヴェネツィアの高潮を写したもの。風景が主だった「ラグーナ/LAGUNA」とは異なり、こちらではほとんどすべての写真に人物が写り込んでいます。膝や腰辺りまで水につかりながらも、なぜか楽しげな人々の表情が印象的です。あとがき」から引くと、ヴェネツィアでは晩秋から春にかけての大潮の時期に、シロッコ(アフリカ大陸からの南風)に雨という気象条件が重なると、潮位が異常に高くなり、街のあちこちが冠水する高潮に見舞われるのだとか。そういえば、私がヴェネツィアに行った時も、朝方は思いっきり冠水していたのを覚えているのだけれど、あれも晩秋のことでした。

河名木さんの写真略歴を見ると、「1947年 東京・深川の運河沿いに生まれる。」、「1973年 初渡欧。約一年間を各地で過ごし、特にかつての深川の運河の様子を彷彿とさせるヴェネツィアに魅了される。」とある。日本にも、かつては豊かな水の世界が隣にある、そんな世界があったのだよね。運河とかお堀とか、やっぱりいいよなぁ。

こちらも気になります。


今回の二冊ではほとんど文章がなかったんだけど、これは紀行文のようだし、面白そう。

後はこちらか。長らく積みっぱなし…。

写真で見てもやっぱりヴェネツィアって不思議な街だなぁ、と思うんだけど、それを知るためにはやっぱり早いとこ読むべきだよなぁ。

■参考■
地球観測研究センター(EORC) の「千年にわたり作り上げた水の都、ヴェネツィア 」。
こういう機関があるんですね、面白い~。

「漁夫マルコの見た夢」/ヴェネツィアの一夜の夢

 2008-01-27-21:43
塩野 七生, 水田 秀穂
漁夫マルコの見た夢

あの塩野さんが絵本??、という感じですが、中型の本だし、実際は結構文字も多いし、でもって内容も結構おっとなーなので、これもまたありかな、な本なのです。

ヴェネツィア近くのリド島に住むマルコは、十六歳にして既にリド一番の牡蠣獲り名人と言われていた。普段は口数の少ない控え目な若者であるのに、海の中でマルコは大胆で自信に満ちた一人の男に変わる…。

さて、いつもはマルコの獲る牡蠣を、親方が金持ちの家に売りに行ってくれるのだけれど、生憎用事があった親方はマルコに代わりを頼む。壮麗なダンドロ家の配膳室に招き入れられたマルコは、そこでキプロスのマルヴァジア酒を振舞われる。通常、親方ペペに振舞われるものよりも、上等な葡萄酒…。マルコはそれだけ見目が良く、若い女の召使が思わず贔屓したくなるような若者だというわけ。

そこへ突然入って来たのは、ダンドロ家の美しい奥方。奥方の気まぐれで若い貴族のなりをさせられたマルコは、ダンドロ家で開かれた夜会の客となる。

商用のため、主人たちが長く海外に滞在することの多いヴェネツィアの貴族の家では、留守を守る女たちには、「カヴァリエレ・セルヴェンテ」(奉仕役の騎士)と呼ばれる男をはべらすことも許されていたのだとか。しかしながら、これらの男たちは主人たちと同じ階級の男たちであることが不文律であり、他の階級の男たちに手を出すことは許されなかったのだという…。

夜半近く、客たちは仮装して街へ出る。男と女は、長い黒マントの下に見える衣装でしか見分けることが出来ず、鳥のくちばしのように鼻のとがった仮面で上半分を覆っていては、誰かを見分けることもまた不可能である。そう、まるで深い海の底に潜ったかのようで…。仮装したマルコは、みずみずしい若さをまき散らすかのように大胆に振舞い始める。

そして、ダンドロ家の屋敷に辿り着いた奥方とマルコは…。マルコは柔らかな寝床の上でも、自由で大胆な漁夫であった。

一夜が終われば、それはただの夢。しかしながら、マルコは朝の光を正面から受け、波の上に美しく浮かぶヴェネツィアの街を眺めながら、ある確信で身体を熱くする。マルコは再びあの夢を見ることが出来るのか? 策略をめぐらすマルコは、最初の純真な彼ではないけれど、自由で大胆な漁夫というのがまさに彼本来の資質であるのかもしれない。

さて、ダンドロ家と言えば、「三つの都の物語」の主人公の一人、マルコ・ダンドロがまさにダンドロ家の出であった。マルコは良くある名前なのだろうけど、このダンドロ家とあのダンドロ家が関係あれば、ちょっと面白いなぁ、と思ったことでした。大胆に行動した漁夫マルコの血が、もしもマルコ・ダンドロにも流れていたら…。生粋の貴族よりも、何だか魅力的だなぁ、と。「三つの都の物語」において、マルコ・ダンドロは生粋の貴族として、きちんと行動していたのだけれどね。

「ローマ人の物語3・ハンニバル戦記[上]」/ローマ軍団のシステム

 2007-12-01-23:22
塩野 七生
ローマ人の物語 (3) ― ハンニバル戦記(上) 新潮文庫

またまた、読者へ」から引いてしまいますと、この部分では塩野さんが歴史を語る際のスタンスが明記してあって、これがなかなか興味深かったです。

この連作の通し表題を、私は『ローマ人の物語』とした。だが、日本語の表題のラテン語訳には、歴史とか物語とかをダイレクトに意味する、ヒストリアもメモリアも使いたくなかった。所詮は同じ意味ではあるのだが、ジェスタエという言葉を使った。RES GESTAE POPULI ROMANI「レス・ジェスタエ・ポプリ・ロマーニ」とは、直訳すれば、「ローマ人の諸々のの所業(ジェスト)」である。いかなる思想でもいかなる倫理道徳でも裁くことなしに、無常であることを宿命づけられた人間の所業を追っていきたいのだ。

そして、歴史はプロセスにあるとの考え方に立てば、戦争ほど当事国の民の姿を裸にして見せてくれるものはなく、これほど恰好な素材もないのだという。上巻で語られるのは、強国カルタゴとのシチリアを舞台とした戦い。

さて、プロセスとしての歴史は何よりもまず愉しむもの。日本で使われている高校生用の教科書によれば、塩野さんがこの巻(文庫本では上中下の三冊)全てを費やして書く内容は、以下の五行に要約されてしまうのだという。

イタリア半島を統一したのち、さらに海外進出をくわだてたローマは、地中海の制海権と商権をにぎっていたフェニキア人の植民都市カルタゴと死活の闘争を演じた。これを、ポエニ戦役という。カルタゴを滅ぼして西地中海の覇権をにぎったローマは、東方では、マケドニアやギリシア諸都市をつぎつぎに征服し、さらにシリア王国を破って小アジアを支配下におさめた。こうして、地中海はローマの内海となった。

しかしながら、これは高校生ならば知らないと落第する「結果としての」歴史であり、これ以外の諸々はプロセスであるが故に愉しみともなり考える材料をも与えてくれる、オトナのための歴史…。

さて、プロセスを愉しむオトナのための歴史。この巻で面白かったのは、「ローマ軍団」のお話。

有事の際にはじめて傭兵を募集するのが一般的であった時代に、ローマ人は高度にシステム化された軍団を持っていた。召集の仕方から軍団の編成まで、相当にマニュアル化されていたらしいのだけれど、マニュアル化もここに極まれり、と思われるのが、一日の行軍の最後となる宿営地の建設なのだという。

なぜ、ローマの人々は事細かくマニュアル化をし、さらにそれを順守する必要があったのか? それにはローマでは指揮官から兵までが毎年変わってしまうという、ローマ特有の事情があった。誰がやっても同じ結果を得るためには、細部まで細かく決めておく必要があったのだという。

この辺ね、企業などでも場合によっては必要な考え方だと思いません?

「ハンニバル戦記」と銘打たれていても、上巻ではまだハンニバルの姿は見えないのだけれど、この辺も、一人の天才が勝つのか、それともシステム化された全体が勝つのか、という点で興味深いです。

目次
 カバーの金貨について
読者へ
序章
第一章 第一次ポエニ戦役前
    (紀元前二六四年~前二四一年)
第二章 第一次ポエニ戦役後
    (紀元前二四一年~前二一九年)

■関連過去記事■
・「ローマ人の物語1・ローマは一日にして成らず[上]」/民族というもの、国家というもの
・「ローマ人の物語2・ローマは一日にして成らず[下]」/すべての道はローマに通ず

*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。

「ローマ人の物語2・ローマは一日にして成らず[下]」/すべての道はローマに通ず

 2007-11-30-23:02

塩野 七生

ローマ人の物語 (2) ― ローマは一日にして成らず(下) 新潮文庫


図書館本の合間に、ぼちぼちと読んでおります、「ローマ人の物語」。
乗って来ると結構スピードも上がるのですが、細切れで読んじゃうと、いちいちちょっと前に戻ったり、読みながら地図のあるページを見たりで、文庫本一冊一冊の薄さの割にはどうも時間が掛かってしまいます…。

目次
 カバーの金貨について
第二章 共和制ローマ(承前)
ひとまずの結び
 年表 参考文献 図版出展一覧


相変わらず、ローマをローマ足らしめていたシステムには、色々と感心するところが多かったのだけれど、この巻で特に面白いなぁと思ったのは、「街道」のこと。

後に、すべての道はローマに通ずと言われるまでになる、ローマとローマの戦力要所を繋ぐ街道網。それらは政治・軍事・行政上の必要から敷設され、敷設された人物の名で呼ばれることになる(アッピア街道は、アッピウスが敷設させたもの)。味方にとって便利な道は、そのまま敵にとっても便利なものになるわけで、このこと故にローマは永遠に自衛の戦いを永久に続ける宿命を負ったのではないか、と塩野さんは書く。

また、このシリーズでは私は本の内容よりも、どうも後書きやら何やらに惹かれがちなのだけれど、今回もまた「ひとまずの結び」から。

同時代の研究者たちの史観に何となくしっくりいかないものを感じていた塩野さんは、原史料に当たるようになってはじめて、ローマ観が自分の中に入って来たのだという。それは、国家の興隆や衰退の要因を感性的な事に求める態度をとっていない、約二千年前に生きた彼らの姿勢によるものだ、と塩野さんは分析している。

塩野さんは、興隆は当事者たちの精神が健全であったからであり、衰退はそれが堕落したからだとする論法に納得出来ず、興隆の因を当事者たちが作り上げたシステムに求めるのだという。この辺、こういうアプローチ故に、多くのビジネスマンたちに好まれるのが分かるような気がします。

私自身について言えば、フランス革命を経た現代に生きているとはいえ、自由・平等・博愛を高らかに唱えれば唱えるほど、自由・平等・博愛の実現から遠ざかるのはなぜか、という疑問をいだきつづけてきた。歴史は、この理念を高らかに唱え追及に熱心であった民族では実現せず、一見反対の生き方を選んだ民族では、完全ではないにしても実現できた事実を示している。私などはこの頃、二十世紀末のこの混迷は、フランス革命の理念の自家中毒状態ではないか、とさえ思うようになっている。

理念は確かに大事だけれど、それだけでは人は暮らしていくことは出来ない。人が幸せに生きられるような、システムを構築することが必要なのだよね。それが、政治。逆に高らかに理念を謳うとすれば、それはシステムがおざなりにされている証拠であり、無策の証拠だと言えるのかも。国会の混迷とかを見ていると、ちょっとうんざり。言葉尻とか個人の言動がどうとかじゃなくて、例えば不正や癒着を許さないようなシステムを作ることが重要なんじゃないかなぁ。

■関連過去記事■
・「ローマ人の物語1・ローマは一日にして成らず[上 ]」/民族というもの、国家というもの

*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。

「ローマ人の物語1・ローマは一日にして成らず[上]」/民族というもの、国家というもの

 2007-10-13-23:31
塩野 七生
ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) 新潮文庫

ずーっと前から、借りているのだけれど、全然手を付けられていなかったシリーズです。今週は図書館本にちょっと余裕があったので、ようやく手付け。でも、これ、私が借りてるのだけでも、23巻まであるんですよねえ。うーん、シリーズ全体を読了出来るのは、いったいいつの日か?

新潮文庫なのに艶のある表紙(私の中では、集英社、文春、講談社、中公文庫あたりは艶のある表紙なんだけど、新潮は艶のないイメージ。合ってる??)、一冊一冊がやたらと薄いところ、なぜかなーと思っていたのですが、巻頭の「『ローマ人の物語』の文庫刊行に際しての、著者から読者にあてた長い手紙」を読んで、ようやく謎が解けました。

文庫化に際し、著者、塩野さんは、文庫の源泉(本を家の外に出そうとした、アルド式の文庫、「タスカービレ」)に立ち戻ろうとしたとのこと。さらに史観で分けた単行本版を、そのまま文庫化すると、分厚くて「持ち運びが容易」という文庫の利点から外れてしまう。単行本を分冊した結果が、私が「薄い」と感じた原因だったみたい。えーと、私が薄い文庫を嫌うのは、移動時間の途中で読み終わっちゃったり、コストパフォーマンスが悪く感じるからなのですが、このシリーズに関しては、幸いにも(?)それは杞憂なようで、薄くとも時間の持ちは十分でした。

また、「本造りには、「グラツィア」(優美)を欠いてはならない」という、これまたアルドの言葉に習いつつ、また、時代を映すという意味で、文庫本の表紙には金貨と銀貨が使われているそう。ちなみに、1巻のこの銀貨は、古代ギリシアの都市国家アテネで、紀元前五二七年から四三〇年の間に鋳造され続けた、四ドラクマ銀貨。表面は女神アテネで、裏面はフクロウ。ぱっと見た限りでは、文庫の表紙は全部同じデザインだと思っていたのですが、こんなにいろいろ考えられているのだとは!

色々ひっくるめて、本に対する拘りが伝わってきて、私のこのシリーズに対する印象もぐっと良くなりました。

目次
『ローマ人の物語』の文庫刊行に際しての、著者から読者にあてた長い手紙
カバーの銀貨について
読者へ
序章
第一章 ローマ誕生
第二章 共和制ローマ
図版出典一覧


基本、自分は物語から逆に史実を引き付けて読む方なので、この辺の「物語」を知らないことは、ちょっと痛かったな~。「ペルシア戦役」(二章 共和制ローマ)などは、これって映画の「300」?(いや、見てないんですけど)と思いながら読んだし、「スパルタ」という都市の在り方は面白く読みましたが。

結局のところ、民族が政治体制を作り、政治体制がまた民族を作る。そして、それらが「国家」となっていく。確かにこうやって読み取って行くのは面白い~。うう、でも、周辺の「物語」をもっと補強したいところでありますよ。
■以前、読んだ塩野さんの本。
・「
三つの都の物語 」/あるヴェネツィアの貴族の生き方

これも気になる~。

「三つの都の物語」/あるヴェネツィアの貴族の生き方

 2005-11-28-09:09
塩野七生「三つの都の物語」

緋色のヴェネツィア
銀色のフィレンチェ
黄金のローマ

「読者に」とされたあとがきを読むと、この三部作の真の主人公は、人間ではなく都市(また、それぞれの初出タイトルは、順に「聖マルコ殺人事件」、「メディチ家殺人事件」「法王庁殺人事件」とのこと)。

トルコ帝国の首都となったコンスタンティノープルと関係を持たざるを得なかった、十六世紀初頭のヴェネツィア、君主国に変わりつつあった同時期のフィレンツェ、最後のルネサンス法王といわれたファルネーゼ法王下のローマ・・・。最盛期を過ぎて、優雅に衰えつつある時期の三つの都市が題材とされる。

この本において特筆すべき事は、塩野氏がこの三部作で、初めて主人公二人を創作するという手法を選んだこと(とはいえ、私はこの本が塩野氏初体験なのですが)になるのだと思う。男女二人の主人公にこの三都市を旅させ、また生活させることで、ルネサンス時代を代表するこの三都市を描いたのだという。主人公二人以外は全て史実によるもので、この三部作は「史実のパッチワーク」であり、常に念頭から離れない「事実は再現できなくても、事実であってもおかしくないことは再現できる」ということの実験例とも言えるのだそう。

ノンフィクション的色彩が強い塩野氏の作品の中では、かなり自由に描いておられるとのことだけれど、例えば歴史小説の系統でいっても、三作品を読んだ佐藤賢一氏(イタリアとフランスという、取り上げておられる国の差もあるけれど)と比較しても、エンターテインメント色は弱く、また読む側にもある程度の知識が必要とされるように思う。

塩野氏が創作した、ヴェネツィア貴族マルコ・ダンドロ、悲しい生涯を秘めた高級遊女、オリンピア。二人とも大変に魅力的であるし、ヴェネツィア貴族の生き方、当時の都市、当時の慣習、政治哲学なども色々興味深いのだけれど、私が読むにはまだまだ自分でこなすことが出来ず、硬い物を無理やり咀嚼しているような感じだった。

「緋色のヴェネツィア」は、ヴェネツィアの元首アンドレア・グリッティの私生児であり、トルコの宰相イブラヒムに深く食い込んだアルヴィーゼ・グリッティを中心に描かれる。そう、「シナン 」ではトルコ側から描かれた史実が、今度はヴェネツィアの側から描かれるというわけ。というわけで、これに関しては、何とかついていくことが出来たように思う。
ただし、ヴェネツィアの貴族、政治に関しては、初めて聞くことばかり。良く出来た制度だなぁ、と感心致しました。外交なくしては立ち行かない、ヴェネツィアという国の強かさ、バランス感覚、情報の重要性が興味深い。
*******************************
さらに「読者へ」によると、いつか余裕ができたら、この三部作の続編を書いてみようか、とのこと。マルコ・ダンドロはまだ四十代に入ったばかり。今後は大使にでもして、十六世紀半ばのヨーロッパ諸国をまわらせてみましょうか」とのことであります。私もこの続編が読めたらなぁ、と思う。それまでに、この文章を噛み砕く力、周辺の知識を養っておこうかと思います・・・。

塩野 七生
三つの都の物語
 ← 三作をばらした文庫もあるようです
 いずれも、朝日文芸文庫より
*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。
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